近江歴史回廊倶楽部

湖北の歴史文化施設

  五先賢の館



琵琶湖の北東に位置する、長浜市田根学区(旧浅井町北学区)が「五先賢(ごせんけん)の里」です。

 歴史文化の深い土壌で育った賢人達は、それぞれの道の学問と行〈ぎょう〉を積み、自己を磨きあげ人の道を究め、生き切るという日本文化の素晴らしさを守り育ててくれました。

 この伝統は、この地に独特の文化的風土性を醸し、古くから郷土に息づいてきた精神的一大遺産として認識し、地元小学校では五先賢の心に学ぶと言う教育目標も掲げています。

 私達も五先賢が絶えず自己を高め人や世の中から受けた愛と心を再び世のために返すという生き様に学んでいます。それでは順を追って5人の紹介を致します。

@相応和尚〈そうおうかしょう〉
 平安時代、比叡山の数ある修行の中でも命がけの「千日回峰行」を始め、最初に成し遂げた高僧として知られていて、天長10年(833)浅井長政の居城があった小谷山の東の山裾、今の長浜市(旧浅井町)北野町に生まれ、十五歳で比叡山延暦寺に入山し、開祖・最澄の教えを全うしょうと決意し「学問の裏には行が、行の裏には学問の裏打ちが必要」と修行に励みました。

そして、宗教界で最も厳しいと言われる荒行「千日回峰行」を創案し実行しました。これは、毎日40粁も比叡の山中を巡拝して歩き、しかも7年、延べ千日間続けます。
 その間には9日間、飲まず食わず、寝ずで、不動明王に祈りを捧げる"堂入り"という行を、回峰行者の根本道場、無動寺明王堂で行なうもので、比叡山の法灯と共に今も引き継がれています。

 和尚の友人の中に、時の右大臣菅原道真が九州大宰府に流された時、形見として小さな自像と一面の鏡を和尚に託しました。
 その後2年余りで道真は病死、和尚は形見の二品を郷里の北野の地で祀ったのが神社・寺の始まりと伝えられています。

A安土桃山時代に活躍した海北友松〈かいほうゆうしょう〉
 友松は、天文2年(1533)小谷山の山麓長浜市(旧浅井町)瓜生町に生まれ、狩野派を代表する画家の一人ですが、独自の水墨画を創り出しました。

友松の父綱親(つなちか)は、小谷城の浅井長政の重臣でしたが、姉川の合戦で浅井家が滅亡し、海北家も京都東福寺に出家中の友松一人となりました。

東福寺で友松は、狩野派に画を学ぶと共に、多くの禅僧や歌人、茶人と交わり高い教養を積み、それが武人的熱血と相まって友松の人となりを築いたのです。

友松はその後、狩野派の影響を受けながらも、中国の昔の画にも学んで、狩野派になかった独自の水墨画の創出に成功して、日本的水墨画の頂点を極め、海北流の一派を創設した海北友松は元和元年(1615) 83才の生涯を閉じました。

A賤ヶ岳七本槍の名武将片桐且元〈かたぎりかつもと〉
 且元の祖先は、信州長野の人でその末孫の直貞(父)は小谷城の浅井氏に仕え、屋敷を長浜市(旧浅井町)須賀谷に構えました。

 天正元年(1573)の小谷城落城寸前に羽柴秀吉の誘いに応え、信長方に寝返り、秀吉が長浜城主となった時、父と共に秀吉に仕えたと伝えられています。

 天正11年(1583)賤ヶ岳合戦で抜群の功をたて、七本槍の一人として有名であり、摂津茨木城一万三千石の城主となりました。

 秀吉の死後は、秀頼に仕えて豊臣家の危急を救うために徳川家康と交渉するなど心血を注いで努力しましたが、かえって淀君らに疑われて悲憤の思いを抱き豊臣氏と訣別せざるを得ませんでした。

C安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した小堀遠州
 茶人で造園建築家、多芸多才の天才で、豊臣氏と徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤めた小堀遠州は、天正7年(1579)長浜市小堀町で小堀新介の長男として生まれました。

 父新介は浅井長政に仕えていましたが、長政滅亡後、秀長に仕え、遠州は戦国武将の子となりました。年少の頃から、偉大な茶人、千利休や秀吉の茶席に出る機会に恵まれた遠州は、古田織部に本格的な茶道を学び「遠州流」を創始しました。

また、徳川秀忠・家光二代にわたり茶道師範をつとめるかたわら、作事奉行として手腕を振るい、大徳寺・桂離宮・京都二条城などは著名であります。

 近江奉行として小室藩主(旧浅井町)となった遠州は領地の人々を愛する心はあつく、日照りで困っている農民のために、領内の各所にため池を築堤しました。

近江孤蓬庵は、遠州流庭園として四季を通じ、自然を愛し「きれいさび」を好んだ小堀遠州の心と芸術の息吹は今も脈々として流れ受け継がれています。

D小野湖山〈おのこざん〉
 文化11年(1814)長浜市(旧浅井町)高畑町で生まれ、97歳の長寿を全とうしました。

漢詩・書道の大家で、京都妙心寺大龍院に湖山の顕彰碑が建っています。湖山は、幼い頃より字の読み書きが得意で、5才の時の書とは思えぬ字が残っています。

 湖山は、初め医学を学びましたが転じて、18才の時江戸に出て苦学をして経史・詩を学び、次第に名をあげ、25才頃には吉田藩主をはじめ武士たちの師となり、知識を研き、識見を広めました。

 明治維新の新政府では要職に就き、国のために働きました。
湖山の詩は「気骨があり、寒山にそびえるとがった岩のようなするどさがある」と言われています。
数千首の詩と、十数集の詩集を残しており、明治天皇からお誉めの言葉と硯を賜っております。

詳しくは次のホームページをご覧ください。

http://www.zd.ztv.ne.jp/gosenken/index.html


 (館長)



       

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