歴史解説・紹介
瀬田は古代近江の中心地
近江の中でも瀬田地域は、古来南北文化の交流の回廊として大きな機能を果してきた要衝の地であります。それだけに残された史跡や文化財も多く、幾度訪れてもその歴史の重みに心惹かれる思いが残ります。
672年、近江朝廷側の敗北に終った壬申の乱は、瀬田橋の戦いが最後の決戦となりました。その時代の橋脚遺構が今の瀬田橋の南約80mの地点で発見されています。
その古代勢多橋から古道に沿って東へ進むと、平安時代前期の勢多駅(せたのうまや)
とされる堂ノ上遺跡に突き当ります。東山道と東海道に通じる大きな駅です。
更にこの古道の東には国司の館舎跡とみられる青江遺跡があり、その北方の丘陵上には近江国庁跡(国史跡)が広がっています。
又、古道の東端では南北に12棟の瓦葺き総柱の建物が一列に並ぶという惣山遺跡が発見されて話題になりました。
国庁に関連する倉庫群とみられていますが、どう使われていたかは定かでありません。
近江国庁では、奈良時代後半から平安時代前期にかけての大規模な瓦葺き建物の政庁とその周辺に広がる関連施設が見つかっていますが、その南側にも勢多橋からの古道に沿う丘の上に多くの瓦葺き建物が並んでおり、そこには当時の人々を圧倒するような都市的景観も望めたのではと思われます。
奈良時代の中央政府で最高の地位についた藤原仲麻呂は、745年には近江国司も併任しています。このことからは近江国府が重視され、規模や施設に特異性を示した理由も窺えます。
一方、勢多橋を西に渡ると石山国分遺跡が広がります。晴嵐小学校とその東の丘陵には奈良時代の国昌寺(後の平安時代の近江国分寺)があったと思われます。
又、その付近は、761年に遷都した淳仁天皇の保良宮(ほらのみや)跡が想定されています。この宮都も仲麻呂が威信をかけて造営したものとみられ、勢多橋をはさんで東に国府、西に宮都というプランからは、近江の中心というだけでなく、奈良の平城京に対する裏の都としての機能も果していたと考えられます。
( 滋賀県地方史研究家連絡会会員)
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