近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

神社の加列要求運動

            
政府の政策に従って滋賀県では明治九年(一八七六)一〇月に神社社格制度が導入され、九七三社に郷社や村社の称号が与えられました。
社格は国家による神社のランク付けだったのですが、列格基準に曖昧な点があったために、まもなく多くの神社から激しい加列要求運動が巻き起こることになりました。

つまり、村社は郷社の、無格社(社格の与えられなかった神社)は村社の社格を強く求めたのです。
明治一四年(一八八一)二月に滋賀県大書記官河田景福から内務卿松方正義に宛てた報告によると、県内で三三社が郷社加列を、四四社が村社加列を要求しています。

旧栗太郡では立木神社・鞭崎神社・三大神社・志那神社・小槻神社(以上草津市)や大宝神社・小槻大社(以上栗東市)などが、郷社加列を滋賀県に嘆願しています。
いずれの嘆願書も当該神社の古い由緒や氏子の厚い崇敬の状況を記す点では共通していました。

 このなかで、大宝神社の郷社加列要求運動には特に激しいものがあったようです。
同社は八〇七戸と郡内第二位の氏子数を持ち、かつ一六ヵ村にまたがる郡内最大の氏子区域を有していたのですが、社格は村社に止まったため郷社加列を嘆願したのです。
明治一〇年六月に提出した嘆願書では、氏子区域の広さや「県下ニ於テヲヤ有名ノ一社」であることを強調したうえで、県に対して明確な郷村社列格基準の提示を求めました。

しかし、滋賀県の回答は従前と変わらない曖昧なものだったようです。大宝神社は以後何度も出願を繰り返しますが、なかでも同年一一月の嘆願書は庶民の崇敬度といった点ばかりでなく、かつては皇族や公卿から度重なる寄進を受けたことなどを列挙した長文のものでした。
こうした運動の結果、大宝神社は明治一四年四月になって、ようやく郷社列格を内務省の許可を受けた滋賀県に認められました。
同一六年までに旧栗太郡では小槻大社・立木神社・鞭崎神社・小槻神社も郷社列格を認められています。

 村社加列嘆願の方では、一村一社という基本方針を示していた滋賀県に、隣村の神社が村社に列格されたのに対して、同様の資格を持つ当村の神社がなぜ列格されなかったのかとの疑問を呈する文言が盛り込まれているものもありました。

蒲生郡大森村(蒲生町)の広田神社が提出した明治一〇年一一月の嘆願書は、前年の嘆願が却下されたため、村民が「非泣落胆」していると記したうえで、今後社殿の修繕費や神職の給与など全費用を氏子四〇戸で負担するとの条件を出して、強く村社加列を求めています。同様の事例は他にも見られたと思います。この結果広田神社は明治一四年に村社加列を認められました。

 『滋賀県統計書』〈明治一六年〉によると、激しい加列要求運動によって、同年末には県内で官弊大社一、県社四、郷社七八、村社九五〇を数えるようになりました。明治九年一〇月時点での数字(官弊大社一、県社二、郷社二二、村社九五一)と比べると、郷社数の著しい伸びが明らかとなり、当初の滋賀県の列格方針が早くも破綻したことが見て取れます。


(賛助会員  池田)



       

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