近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

神社の社格

 地域の神社に、「旧郷社○○神社」とか「旧村社○○神社」と記した石標が建っている場合があります。郷社などの称号を神社社格といいますが、古代からあったものではなく、近代に入って定められたものでした。

明治四年(一八七一)五月の太政官布告と七月の郷社定則により、全国の神社に官弊社(大・中・小)、国弊社(大・中・小)、府県社、郷社、村社の社格を与えることが決定され、いずれの社格も与えられない神社は便宜上無格社と呼ばれるようになりました。
社格制度は、村落共同体の末端の神社まで、皇室との関係を基準に序列化しようとする前例のない神社制度でもありました。

現在の滋賀県域に鎮座する神社では、大津市坂本の日吉大社が明治四年五月に政府によって官弊大社に列せられましたが、県社以下はずいぶん遅れて、ようやく同九年十月になって県社二社(郷社を兼ねる)、郷社二二社、村社九五一社の列格が行われました。

『法規分類大全』社寺門に載せられた滋賀県から政府への報告を見ますと、列格が遅れた理由として、県内の神社数があまりにも多かったうえに、ごく小さな神社であっても「式内社」などの由緒を主張したため、その真偽判定にとまどったことをあげています。
そこで、滋賀県は社格の付与にあたって、従前の由緒を一切問わず、当時の崇敬状況をもとに、村社は一村に一社(氏子を有することが条件)、郷社は各郡に二、三社置く方針を採りました。

しかし、特に郷社列格に関しては、基準に曖昧な点があったようです。
具体的には、神社の氏子戸数か、氏子区域の広さかどちらを優先させるのかという問題です。旧栗太郡では、建部神社(大津市)が県社兼郷社、印岐志呂神社(草津市)が郷社に列格されました。
前者は県社であることが主体ですので、別の基準が考慮されたようですが、問題なのは後者の方です。

明治八年当時旧栗太郡内には複数の氏子村を持つ神社が一二社存在していました。
氏子戸数が最も多かったのは立木神社(草津市)の九〇〇戸で、以下大宝神社(栗東市)八〇七戸、印岐志呂神社五〇五戸と続いていました。

一方氏子区域では、大宝神社が一六ヵ村と最大であり、印岐志呂神社は一二ヵ村、立木神社は二ヵ村に過ぎませんでした。
このような中で、立木神社は氏子区域の狭さが問題とされ、最も有力と考えられた大宝神社も、文化一三年(一八一六)の氏子区域三二ヵ村から半減していたことが考慮されて、結局氏子戸数・区域とも郡内第一位ではなかった印岐志呂神社が郷社に列格されたと思われます。

社格の付与はいわば国家による神社のランク付けであり、その基準にも曖昧な点がありましたから、列格後早々に各神社からの激しい加列要求運動が巻き起こることになりました。

(賛助会員  池田)



       

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