近江歴史回廊倶楽部

  歴史解説・紹介

   甲良豊後守宗廣公


 「甲良豊後守記念館」は、私の住む犬上郡内にあり、甲良町と豊郷町とは隣接しており、日頃から観光協会等で交流しています。

以前に観光ボランティアの方が来町して、甲良豊後守の経歴や逸話を講演されました。その時の資料などから豊後守宗廣公の経歴を書かせていただきます。

 宗廣公が日光東照宮の造営を完成させ、数え年63歳の時、家督を宗賀に譲る。
幕府からの隠居願いも許され、68歳にして晩年の余生を送ることを願い、故郷の出生の地、法養寺に帰ると、帰る数日前に犬上川が氾濫し、洪水で自宅は流されていた。

宗廣公は仕方なく幼年期からの旧交の地の旦那寺、豊郷の四十九院唯念寺に身を置きました。

宗廣公にはここが気の休まる人生の旅の終着駅に思えたのでしょう。そこから思い出のある、人生のターニングポイントとなった京都に度々往復していたとのことです。


                      唯念寺

唯念寺に残る資料には「宗廣在世中に浄財を寄付して寺院を起立した」とあります。
 唯念寺で安心立命仏道修行を送っていた時に、自分の肖像彫刻「宗廣自刻の坐像」を造り、今も唯念寺の秘宝として大切に保管されています。

 唯念寺は中山道に面し、歴史も古く、奈良時代後期の西暦731年、僧行基によって創建された。

書院の楼閣「芙蓉閣」は当時3階建て(数年前に台風のため損壊し、現在は二階建てに改造)であった。由緒ある寺で、宗廣公は青年期に当寺の修復作業をされたようである。

最近、本堂の瓦葺き替えがあり、瓦に宗廣と書かれた墨書が発見された。そういう由縁もあり、日光東照宮の造営で信頼と支援を賜った「天海大僧正」の感化を受けたこともあって、書院の庭に「皇園」と名づけた。


                 唯念寺古瓦で修復した壁

また、「行基の庭」とも呼ばれている。枯山水の庭園は、自然に溶け込みながら高雅な趣が漂っています。

 宗廣公は天保3年(1646)病を得て京都で没した。ときに七十四歳でありました。
*註 唯念寺は観光寺院ではありません。寺院・庭とも非公開です。


甲良宗廣(こうら・むねひろ) ≪1574〜1646≫庚寅記載録(こういんきさいろく)

【別称】 従六位左衛門尉 豊後守 建仁寺流を称す
【肩書き・職業】 建築技術者 江戸幕府作事方大棟梁甲良氏(初代)

【履歴・事蹟】
 天正2年(1574)、近江国犬上郡甲良庄法養寺村の大工の家系に生まれる。
 祖父、光廣の代より京都で活躍していた。
 祖父、甲良光廣(甲良三郎左衛門)は京の都「建仁寺」門前通りで宗廣の父、氏廣(甲良小左衛門)と共に建仁寺流と称し、社寺の建築造営を担う大工職務をしていた。

 信長による安土城築城(1579)で、岡部又衛門の下で安土城本丸御殿の作事を取り仕切った。以後、丹羽長秀の御用大工を勤め、のちに藤堂高虎の配下で各城の普請を行なう。

慶長元年(1596)、伏見城で徳川家康に謁見後、その召抱えとなって作事方の用務を任される。
京都の近衛家の門を建てて従六位左衛門尉を、また吉田神社建立のさい藤堂高虎の作事奉行配下の棟梁をつとめた功により豊後守を賜った。(藤堂家と甲良家は同郷で約1kmほどの距離)
 
慶長9年、江戸へ下って作事方棟梁をつとめ、芝増上寺山門(慶長10年)、山王社(慶長10年)、江戸城の改築(慶長11年)、江戸城天守閣(慶長12年)を担当。寛永9年(1632)、増上寺台徳院御霊屋造営を行なった。この年、江戸幕府の大棟梁になる。

寛永13年(1636)、日光東照宮の式年造替にともない、当時西日本の建築界を代表する京大工の名門・中井氏に代わって同宮の新社殿造営をおこなっている。

三代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米百俵と現在の東京都新宿区市谷に10,000坪という広大な別荘地を拝領する。

本人は隣接する千住屋敷に居住し、この頃になると甲良氏もすでに江戸を拠点とした東日本における建築界の代表格に上り詰めていた。

寛永16年、寛永寺五重塔などの作事も担当。寛永17年(1640)に隠居したが、家督を相続していた宗次(二代)がこの年に病死した為、新たに相続者となった当時13歳の宗賀を補佐した。

この年、剃髪して道賢と号す。天保3年(1646)3月17日没。墓は京都真如堂にある。

なお、甲良氏はこれより明治維新に至るまで11代続き、11代甲良棟隆(匠造、明治43年没)の際、明治維新を迎え廃業した。流派は大島盈(よう)鰍ノ引きつがれ、後に新橋駅等、鉄道建築物の造営に貢献した。甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道技師)が昭和21年(1946)に没して断絶した。

想えば宗廣の祖父(甲良三郎左衛門光廣)が安土築城に関わり、明治の世まで一門を踏襲できたことは、これひとえに近江国の母山と仰がれ、比叡の御山(みやま)といわれ、文化・学術の総帥、比叡山に去来する他何者でもありません。

国宝的人材育成と学問と修行の場として近江一円に末寺が多く建立されました。犬上郡内はことのほか神社仏閣が多いところです。それ故に宮大工が多く、甲良氏も建造物の一翼を担ったのでしょう。

                                                       (西山)




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