近江歴史回廊倶楽部

  歴史解説・紹介

     南山寿星
     
 狩野英信 筆

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東京・銀座、歌舞伎座近く、「みゆき通り」と「昭和通り」の交差する「銀座東五丁目」交差点角の「サンビルディング」の側壁に「狩野画塾跡」の説明板がある。よほど注意して見ないと見逃してしまいそうにひっそりと立っている。

江戸時代このあたりはといわれ、江戸城修復のための木挽職人(のこぎりびき職人)を住まわせたところである。

その後、寺や大名の別邸、さらに町人の住宅地となり、柳生道場や歌舞伎小屋などがあり、その一角に木挽町狩野家の屋敷があったということである。

室町幕府に仕えて頭角をあらわしてきた狩野派は、つづく織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、常に時の権力者に仕え、御用絵師となって確固たる地位を築いてきた。

徳川家康が江戸に幕府を開くと、狩野家の主力も江戸に転居して行った。江戸時代の狩野派は、狩野家を頂点としたピラミッド型の組織となっていた。

その頂点に立つのが江戸狩野の祖、狩野探幽と弟の尚信・安信の三兄弟で、将軍の御用を務める「奥絵師」と呼ばれ、旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許された。

三兄弟はそれぞれが拝領した屋敷の場所を付して、鍛冶橋(探幽)・木挽町(尚信)・中橋(安信)狩野家と称された。

後に、尚信の孫が将軍の寵愛を受けて独立し、浜町狩野家として奥絵師に加わり四家となる。

この奥絵師に次いで格式の高い「表絵師」は、大名家や社寺の御用を務め、その下に一般町人を対象とした「町絵師」が位置するというように、明確に格付けされ、その影響力は全国に及んでいた。

奥絵師四家の中で、比較的安定して栄えたのは、狩野宗家の中橋狩野家でもなく、探幽の子孫の鍛冶橋狩野家でもなく、木挽町狩野家である。

この家系は、最初尚信が竹川町(現在の銀座七丁目)に御屋敷を拝領したため竹川町狩野と呼ばれ、尚信の嫡男常信、その子の周信と継承されたが、六代栄川院の時に、老中田沼の知遇を得て、木挽町の田沼邸の一角に移転したので、以後は木挽町狩野と呼ばれ、惟信、栄信、養信と続き、特に養信は狩野派最後の名手と言われた。また明治の日本画の巨匠、狩野芳崖と橋本雅邦の二人もこの画系の出身である。

狩野栄信は、木挽町狩野八代目の絵師である。幼名は英二郎、伊川・伊川院・玄賞斎などと号し、院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。

1775(安永4)年、狩野養川院惟信の子として江戸に生まれる。幼少より厳しい教えを受け、11歳で奥絵師としてデビューを飾る。

28歳で法眼に叙せられ、1808(文化5)年、34歳の時に父惟信の死により家督を継ぐ。また同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁になり、自身も二双制作している。

こうした功績により、1816(文化13)年に法印となる。本職のほかに茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。

また、能鑑賞会などの公務をしばしばさぼって息子に押し付ける、調子の良い一面が養信の『公用日記』に記されている。

しかし、画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作、力作が多い。中国名画の場面をいくつか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きのある画面空間を作るのに成功している。

さらに家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の著色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、流派にこだわらない新しい狩野派の画風を追求し、1828(文政11)年54歳で没した。

子に木挽町を継いだ長男養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野立信がいる。

本図は、寿老人を描いたものである。寿老人は南極星の化身とされ、「寿星」とも称され、古来、寿命を司る神として信仰を集め、吉祥画として多く描かれている。

                           南山寿星
         

本図もそうしたものの一つで、岩に腰かける寿老人は、背の高い帽子を被り、杖を携えた白髪の老人の姿にあらわされるが、目の落ち窪んだ鬼気迫る容貌は、福の神としては異様である。

傍らには1500年の齢を経た玄鹿が寄り添い、背景には松・竹・梅が配され、花をつけた梅の枝が寿老人を覆うようにのびるのも特徴的で、とても吉祥画とは思えない緊迫感、重苦しい雰囲気が画面全体を支配している。

数ある寿老図の中で、このような異様な寿老図は、阿波の蜂須賀家に伝来した雪舟筆の「梅潜りの寿老」(東京国立博物館蔵)を原本とするもので、本図のほかにも模写本が何点か知られているが、いずれも雪舟ゆかりの派か狩野派の作品である。

明代の中国に渡り、直接中国画を学んできた雪舟の影響力は大きく、日本離れした独特の画趣が、栄信をはじめとする多くの絵師に受け入れられたのであろう。

                                             


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