近江歴史回廊倶楽部

  歴史解説・紹介

   栗紅葉月図
     
渡辺始興 筆

 
渡辺始興(1683〜1755)は、伊藤若冲(1716〜1800)や円山応挙(1733〜1795)などに先んじて活躍し、京都画壇の先駆者と言われた江戸時代前期の絵師です。

天和3年(1683)に京都に生まれ、通称を求馬といい、はじめやまもとそ山本素けん軒(1706年没)などの江戸狩野に師事し、さらには晩年のおがた尾形こうりん光琳(1658〜1716)に就いて学び、狩野派や大和絵、琳派など幅広い画風で優れた作品を遺しました。

 さて今回ご紹介する作品は「栗紅葉月図」一幅です。

画面中央に大きく満月を描き、前景に紅葉樹と栗樹を描いています。月は大きく大胆に描かれており、月光が明るく夜空を照らし、澄んだ秋の空気を表現しています。月と紅葉を重ねて描くことで月が一層間近に感じられ、見る者に実際に月を眺めているような感覚を与えます。



月を愛でる風習は観月や玩月とも呼ばれ、古くは中国漢代にさかのぼります。唐代には旧暦の8月15日に供え物をして月を拝み鑑賞するようになりました。

日本では平安時代に中国の月見の祭事がもたらされ、天皇や貴族たちが、舟を浮かべて水面に映る月を鑑賞するなど優雅に観月を楽しむようになります。

紅葉もまた日本人が大変好んだ秋の題材です。室町時代のかりのひでより狩野秀頼筆「観楓図屏風」(国宝 東京国立博物館蔵)をはじめ、絵画や服飾などの文様、文学作品などに多く用いられました。

栗は日本人が縄文時代から食してきた大変なじみ深い植物です。
平安時代以前に、中国から9月9日の重陽の節句がもたらされるまでは、農村や民間では秋の収穫の時期に栗を食して祝いました。

そこから重陽の節句を別に「栗の節句」とも呼ぶようになります。「栗紅葉月図」には3栗が描かれていますが、この3栗は両端が父母で中央がこどもを象徴します。

『万葉集』の中で、山上憶良が「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ いずくより来りしものぞ まなかひに もとなかかりて安寐(やすい)し寝さぬ」と詠むなど、栗は親子の情愛を象徴するとも言われています。

本図は、紅葉などの景物が簡潔で軽快な筆さばきで描かれ、紅葉や栗の木には暈かしの技法を用い、深まり行く秋を描いた穏やかな印象の一幅です。

このような作品とは別に始興は様々な画風の作品を描きました。特に実際の文物を観察して詳細に描いた写生画です。

よく知られているものに「鳥類真写図巻」(三井記念美術館蔵)があげられます。これは17メートルにも及ぶ中に63種類の鳥類がきわめて細密に描かれています。江戸時代のはじめには既に博物学がもたらされており、とくに始興がこのような写生画を描いたのは、彼が仕えたこのえいえひろ近衛家熈(1667〜1736)の影響があると指摘されています。

始興は、五摂家の一つである近衞家のお抱え絵師でした。
絵師にとっては禁裏御所をはじめとする御所で御用絵師を勤めるのは最も格式が高く、名誉なこととされました。

近衞家熈は、江戸時代前期から中期にかけての近衛家当主であり、摂政・関白・太政大臣を歴任した人物で、江戸時代を代表する文化人です。
家熈の肖像画である「近衛予楽院像」(重要文化財 三時知恩院蔵)も始興が手がけたとされていて、両者の関係がうかがえます。

予楽院は能筆家として知られ、そのほかにも茶の湯や立花はもとより、中国の法律から古筆の研究まで、その博識は博覧強記で有名でした。
予楽院を中心とする宮中は一流のサロンとして、教養の深い人々が集いました。

また、この頃は江戸幕府の御用絵師であった狩野派が衰退し、京都御所などの造営に際しては京都の絵師たちが登用されるようになるという、近世絵画史において変化の時期にもあたります。

始興より遅れて生まれ、後に円山派を築いた円山応挙は、前述の「鳥類真写図巻」などを精力的に模写するなど、始興を高く評価しました。

始興が江戸時代の京都画壇の先駆者といわれる所以です。また始興は絵画制作にとどまらず、尾形乾山とも交流し、乾山の絵付けを担うなど、幅広くその才を発揮しました。

様々な画風を見せる始興ですが、当時の一流の文化人に鍛えられ、彼らの要求の中で、幅広い技法を駆使してその求めに応じたことが知られ、絵師としての豊かな技量がうかがえます。




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