近江歴史回廊倶楽部

  歴史解説・紹介

  湖東染付釣燈籠
       


滋賀県内にはたくさんの「やきもの」があります。もっとも有名なのは、信楽焼でしょう。信楽に行って信楽焼のお店に並んだたぬきを見ると、何だかウキウキした気持ちになります。

滋賀県以外の土地に行った時、食事を取ろうと入った飲食店の店先や店内で信楽焼のたぬきを見ると、ちょっとうれしくなったりします。

そんな気分になってしまうのは、滋賀県に住んでいるわれわれにとって信楽焼は、「ふるさと」を思い起こさせる存在であり、小難しい言い方をすれば単なる「やきもの」という概念を超えた「地域のアイデンティティ」になっているのだと思います。

そんな地域のアイデンティティであるやきものは、現在は生産されていないものもありますが、湖東焼、姥が餅焼、梅林焼、小富士焼、膳所焼、下田焼、湖西焼など県内各地にもたくさんあります。

これらのやきものの始まりは一様ではありませんが、その土地の粘土を使い、その土地の人がかかわりながら作り、使われていく中で、産業や暮らし、文化、そして地域の歴史など多岐に及ぶ要素を包括しながら、単なる「やきもの」という枠を超えた存在になっているのではないかと思います。

さて、そんな中で今回ご紹介するのは、「湖東染付釣燈籠」です。

湖東焼は、江戸時代後期である文政12年(11829)、彦根の城下町の商人・絹屋半兵衛らによって始められました。
伊万里から職人を呼び寄せ、まずは芹川上流に窯を作りましたが、のちに佐和山の山麓に移転しています。始めた当初はなかなかうまくいかないことも多かったようですが、次第に品質もあがって人々に知られるようになり、彦根藩からの援助も受けるようになりました。

天保13年(1842)、井伊直亮(1794〜1850)が彦根藩主であった時、彦根藩に窯が召し上げられ、藩が経営する「藩窯」としての歴史が始まりました。

以後、湖東焼はこれまでの高級品志向にさらに拍車をかけるように、さらなる高級品が生産されていったようです。

湖東焼の生産がもっとも盛んとなったのは、井伊直弼(1815〜60)が藩主であった時期です。
直弼はもともと若い頃よりやきものに興味をもっていましたが、嘉永3年(1850)に彦根藩主となるや、さっそく藩窯の規模を大きくして盛んに各地から優れた職人を招きました。

さらに窯の経営を見直すなどの改革が行われた結果、窯は「黄金時代」と呼ばれるほどの繁栄をみせました。直弼は、湖東焼の優品を彦根藩の特産品として贈答に用いたといいます。

ところが、順調に経営が進み、まさに絶頂期を迎えていた藩窯に大きな衝撃が走りました。安政7年(1860)3月24日、大老として幕府の政治の中枢にいた井伊直弼が、水戸浪士らによって襲撃されて命を落としたのです。

これにより藩窯は大きな後ろ盾を失い、世情不安にかられた職人たちが次々に離散したことで藩窯は勢いを失い、文久2年(1862)に廃止されてしまいます。

その後、元藩窯は設備や器具、材料などを含む一切が山口喜平らへ払い下げられて生産が続けられましたが、これも明治28年(1895)にその歴史に幕を閉じています。

 湖東焼は白く焼き締まった肌を特徴としており、金襴手、赤絵金彩、色絵、染付、青磁など多彩な技法を用いて作られていることから、われわれに多様な姿を見せてくれます。

とくに知られている職人が、幸斎と鳴鳳の二人の絵師です。

幸斎は井伊直弼が藩主となる直前に彦根を去りましたが、直弼は彦根に戻るよう働きかけていたことがわかっています。

鳴鳳は細緻な絵付けで知られており、作品の多くは直弼によって買い上げられたといいます。彼らが絵付けをした作品たちは、湖東焼を代表する優品となっています。



 さて、今回紹介するのは「湖東染付釣燈籠」です。やや青みを帯びた白い肌、青い染め付けの柄がとても美しいものです。
全体に唐草文様が描かれており、笠には細くたなびく飛雲、そして羽を広げた鳳凰などが見られます。四面ある火袋は、青海波文と七宝つなぎ文をそれぞれ各二面ずつ、透かしにしてあらわされており、柱には花と雲があしらわれています。

紙面が白黒なので色をご覧いただけないのが残念ですが、染め付けの青色も濃淡をうまく取り入れて表現されています。

藩窯としての湖東焼は、先にも触れたように井伊直弼が大名等への贈答品としたため、あまり市井に出回らなかったこと、創業期間が短かったこともあり、幻のやきものと呼ばれることがあります。しかし、その魅力のファンになっている方も多く、現在は地元の彦根を中心にその復興が進められています。



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