近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

 金勝寺をとりまく仏教文化
       


金勝山金勝寺寺は、湖南アルプスなどと称される湖南から甲賀の山々の北端の山中にあります。
うっそうとした木々が生い茂る境内には、4m近くもある平安時代前記の軍荼利明王立像をはじめ、平安時代後期の虚空蔵菩薩や釈迦如来像など、多くの優れた仏教彫刻が伝えられています。
         写真は金勝寺山門

金勝寺から北西に小一時間ほどのところには、狛坂磨崖仏と呼ばれる浮き彫りの石仏があります。

この仏菩薩は、韓国慶州南山の石仏とよく似ていると指摘されてきました。朝鮮半島から渡来した人々が伝えた文化の影響の下につくられたものとみられます。

さて、金勝寺の開基とされる良弁は、大仏の建立にも深く関わった奈良東大寺の僧です。石山寺の開基としても知られていますが、石山寺は湖南や甲賀の山々から切り出した木材を奈良へ運ぶ基地的な役割も果たしていたのでした。

奈良の壮大な諸寺や都の整備には、たくさんの資材が必要でした。のみならず、大仏のような見たこともないほど大きな仏像や堂舎をつくるには、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人々から技術的な示唆を得ることも多かったと思われます。

良弁の出自には諸説ありますが、近江国の人や百済の人とする説の背景には、こういった点が反映しているのでしょう。

近江には良弁やその師義淵を開基とする伝承をもつ寺がたくさんあります。金勝寺の草創も、良弁本人によるかどうかはともかく、奈良の仏教文化と一連の動きのなかにあったことは確かです。

近江の古くからの霊山には、しばしば奈良の仏教文化の影がうかがえます。

湖北の己高山周辺には、鶏足寺の薬師如来立像や十二神将など、奈良地域の造像と密接な関連をうかがわせる像が伝えられています。

伊吹山では三修(829〜900)が仁寿年間(851〜54)に伽藍を再興、元慶2年(878)には定額寺となっていますが、彼は維摩会の講師も務めた法相真言兼学の僧でした。

後に最澄が日本の天台宗の中心地とする比叡山周辺にも、金勝寺の願安とともに宮中の仏名会に名のみえる法相宗の僧静安が、比良山妙法寺、最勝寺をひらいています。近江八幡の奥島に奥島神宮寺を開いた賢和は、この静安の弟子でした。

金勝寺も平安時代の初頭の弘仁年中(810〜824)に、奈良興福寺の僧願安によって伽藍が整備され、天長10年(833)には定額寺になっています。

これらの寺の地は、いずれも交通の要衝をおさえており、かつて南都の僧侶たちが積極的に活動の場を広げていた様子がうかがえます。

日本の天台宗をひらき比叡山延暦寺をその中心地となした最澄(767〜822)の活躍から100年あまり経った10世紀半ば、比叡山の中興の祖とされる天台座主良源(912〜985)の時代に、天台宗は近江全域に勢力を拡大しました。

近江における南都勢力の中心地のひとつであった金勝寺周辺でも、野洲川の対岸あたる山中に正暦4年(993)ごろには天台寺院善水寺が整備されており、今も多くの尊像を伝えています。
やがて天台の教えの中から天台浄土教が広まり、室町時代に金勝寺の東の参道の麓に創建された阿弥陀寺は、近江の浄土宗教団の中心的寺院として名を馳せます。

のちに織田信長の命により、阿弥陀寺の僧侶たちは安土の浄厳院に移されます。浄厳院が金勝寺にゆかりをもつことは、その山号「金勝山」にも見て取られます。

そして浄土宗の開祖法然に学んだ親鸞に端を発する浄土真宗が、やがて蓮如の時代以降、近江各地に広まっていくのです。

このように近江の宗教文化は、時代によっていろいろな要素を受け入れ、豊かに重層的にはぐくまれてきました。

現在の状況は固定的なものではなく、長い歴史の結果です。ここに至るまでの時間の流れに思いを馳せてみるのも、興味深いことではないでしょうか。


(栗東歴史民俗博物館  学芸員 松岡久美子)


       

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