近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

 日牟礼八幡宮の謎

                 
 日牟礼八幡宮の謎 上古代なんて嘘や、と言われる御仁には不向きな伝説ですが、稲荷山鉄剣は「吾が上祖オオヒコ」としています。崇神帝の時代に四道将軍の一人として活躍をされています。

そして沙沙貴神社の祖神も同祖と言われています。このような象嵌剣の物的証拠まで否定は出来ませんね。
八幡伝記によれば、その4代後、13代成務天皇近江高穴穂の宮、即位のおり、武内宿禰に命じて、この地に大嶋神社を祀られた。それが日牟礼の始めと記されています。

15代応神天皇6年近江行幸の折、奥津嶋神社に参詣され、還幸に津田の細江を夜、渡らせられ、住民は松明を焚き案内したと言う。
いまも八幡祭りに、南津田町の松明入場が、約1,700年前の、その様子を伝えていると聞きます。

行在所は宇津野々辺に御休所が置かれ、後年その仮屋の跡に、日輪が二つ浮き出た、故に祠を建て「日群之社八幡宮と名付く」(八幡宮名は未だ疑問)後に藤原不比等が参拝し、和歌に詠み、比牟礼社と改む。

66代一条天皇の勅願により正暦二年(九百九十一)八幡山頂に宇佐八幡宮を勧請し「(日牟礼)八幡宮」とする。日牟礼・比牟礼の表記は鎌倉の終わり吉野時代としています。

不比等の比牟礼も此処で生きてきたのでしょうか、いや、むしろ日群之社が潜在していたからだと思います。また寛弘2年(1,005年)に遥拝社を麓に建て「下の社と号す」と記す時、おそらく式内社「大嶋神社」は奥津嶋神社に合祀されたものと理解します。

勅願には抗すべきもありません。それから今ひとつ九州福岡の宗像大社が海神社であるように、上古代の木の葉のような浮き舟の往還に、無事を願わぬ訳がありません。旅人は祈る代償に禊を務めたことでしょう。

4世紀代に、すでに存在した、これも海神社、その沖の島の奥津嶋神社を沖つ宮、奥嶋の奥津嶋神社を中津宮、大島の大嶋神社を辺津宮とする。直線の三社が湖上交通の安全を祈って祀られて居たとしたら、渡来人の人達の依代でもあったのです。

白鬚神社の赤い鳥居は航海の無事を祈る目印にも見え、湖の道では、なかったのでしょうか、そのような類推の中に、合祀も又、自然の成り行きと理解できます。

比牟禮社が何故八幡神社になったのか、それは応神天皇の当地行幸説に結びつくものであると共に、中世以降は佐々木六角の影響で武神に様変わりします。しかしまたなぜ勅願のでるほどの事態がおきたのか、平安時代の中期、藤原全盛の時代、荘園の管理を神主が支援を見返りに受けることになります。
その背景が大きいほど力と勘違いすることは、いつの世も変わりません。骨抜きの神主は思いのままに、動いたのでしょうか、記述の中に読み取れます。

八幡町周辺はその昔多賀・大林・土田・中・市井・北庄までを宇津呂村とし、嶋村を含め大島郷と言ってきました。その大島の一部が一条帝の比牟禮・宇津呂荘園として成立し、神官は同時に荘園の支配者、見返りに一条帝から勧請、社殿造営、氏子拡大の支援が類推されます。

つまり信仰的・政治的・経済的に神社を中心に神官と荘司が結合し、宇津呂荘はこの時代皇室御領に属し、藤原末期には八条院領として皇子・女間に伝領される。その間、神官に安氏・大友氏の名があり、安直氏ならば御上野洲です。

奥津嶋神社でも神官兼務らしく野洲の文言あり、日牟礼八幡神社は実に変遷が多く、神社として古いに違いありません。それだけ御利益、人気がおありなのでしょうか、時代を見続け、地域の守護神として、これからも崇敬を集めて往かれる事でありましょう

(平田)




       

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