近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

 秀次公の悲劇

                 
例年7月15日は 八幡山城跡、村雲瑞龍寺にて郷土史会が主となり豊臣秀次公の法要が行なわれます。昨年、東近江支部例会はこの法要に参列致しました。改めて秀次公は殺生関白でなかった事を皆様に知って下されば幸と存じここもと拙文を記します。

秀次公は木下藤吉郎の甥として年少のころから、戦略上人質として利用され
成長するに連れ経験も無いのに身内の縁故で一軍の大将に祭り上げられながら、
努力して軍歴も成果を挙げてまいりました。

 大名として経験豊かな宿老を付けられましたが青年大名として近江八幡の築城、城下町の整備に新機軸を生み20万石からさらに100万石の織田信雄の旧領を得ました。この加増は天正18年(1590)7月小田原攻めの恩賞でした。

織田旧領への転封は前領主織田信雄が祖先伝来の領地を召し上げられて遠州への転封を拒否したため秀吉により改易され、最後は秋田へ流されました。その遠州へは秀次の宿老達が加増されて領主となり秀吉は東海道の道筋を支配させて関東徳川に備えたのでした。 
この事件が、秀次が殺生関白と呼ばれる伏線となります。仕掛け人は太田和泉守牛一です、彼は信長公記の著作で有名ですが、たいかう軍記も著しています。しかし大半を秀次公の謀反に関る記事であり秀次公を貶める文が目立ちます。秀吉の秀次一族殺戮を正当化させる意向が窺え太閤秀吉に媚びたのでしょうか。

太田牛一は信長の譜代の家臣でした。
織田信雄の美濃尾張百万石が転封を拒否したために織田信長一族が一所懸命守り育てた領地を権力者秀吉に没収されて一族郎党が路頭に迷う中を、覇者秀吉の甥で年若い秀次が入城して参ります。改易のため没落した藩になり朋輩が苦労を強いられている事を知る牛一は憤懣、怒りを秀次に浴びせたものでした。

 軍記いわく何の働きもない若造20才未満(実際は秀次23才)が天下を与奪され
栄花、栄耀にほこり, 美女百余人集め置かせられご寵愛ななめならず云々と書かれてあり、秀次を何の実績も無い極悪人に仕立て上げ、文中には喪中にしし狩をしたとありますが、事実は秀吉に有って秀次は無実です、喪が明けて後に記録があります。

刀の試し切りで1000人も殺したとありますが、そのころ領主達は献上された刀剣を罪人の刑執行の時に験し切りに使ったもので秀次のみではありませんでした。都人からすれば権力者の横暴と思えたのでしょうか。

その他多数の事例をあげつらっております。時代が変わり、豊臣が滅び徳川が天下を取り、徳川政権を良く見せるために前政権者豊臣を貶めることがありましたが、そのひとつにたいかう伝記の秀次の悪行をおもしろおかしく物語る読本が出されました。これが今も読まれている事です。

 秀次が若年の23才で関白に就くことができたのは,秀吉が苦労して得た地位財産を他人にはやれない,少しでも身内に引き継がせ、自らは太閤として君臨を続け関白も支配する意思であったと思われます。

大名への宛知行権,軍事統率権は太閤の権利として持ち日本の武家統治の権力は秀吉のものでした。
 しかし関白は世襲できるものではありませんでした、秀吉が強引に朝廷、公家を屈服させて秀次に関白職を委譲して朝鮮出兵の前線基地を九州に陣を構え、秀吉自らが出陣しました。

秀次は京の留守居役として天皇と公家達の折衝役として残され秀吉によって戦略の道具に使われたのでした。しかし秀次の働きは見事でした京都守護職として朝廷と公家との折衝役を勤め、朝鮮への渡海作戦では関白職の権限で人掃令による徴用、渡海用船舶の造船を命じ朝鮮出兵を大いに助けました。

文化芸術についても公家と交わる中で文化人としての才能を育て数多の文化財の保護を策し、京五山には扶持を与え学問を奨励、歴史に残る活動もしています。

関白の政治権力が秀次にやる気を持たせます。例として関白の同意が無ければ叙位とかについて、朝廷の認めが受けられず太閤も決定ができないないという、律令国家組織の機能が今尚存在して関白の存在感も出てきました。
それらの事柄が大名達にも影響が出て関白秀次に誼を通じてくることになり秀吉側に、特に三成を代表とする武家官僚政治側に危機感を与えました。 

朝廷を柱に関白の政治権力と、軍事力を柱に武家支配の太閤政治権力の闘争が起こり始めたのです。秀次も太閤の蔵入り地の近江に検地の介入等も出てきました。 決定的な事は秀吉が諦めていたであろう実子が文禄2年1593誕生。秀吉が関白職を実子にとの思いが秀次側に理解できず、秀吉・秀次の和解の会見もされずに最悪の事態となり、秀次と妻妾子弟皆殺しの粛清がされました。

秀次を葬り去った豊臣政権は秀吉子飼いの武将を離反させるもととなり、徳川の豊臣方攻撃に率先させられました。
秀吉の幕僚三成に対しての恨みが根強かったと思います。秀頼は関白に就任できず若くして非業の死を遂げるに至りました。

 この稿の終りにたいかう軍記には「その道違うときは、意ありと言えども、久しく保たず」まことに天道恐ろしきの事。と書かれております。
                                   終
参考図書   太閤秀吉と秀次謀反   小林千草  筑摩書房
       豊臣秀次        小和田哲男 PHP研究所
       豊臣秀次の研究     藤田恒春  文献出版
       封印された名君 豊臣秀次 渡辺一雄  廣済堂出版
 



(小根田)




       

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