近江歴史回廊倶楽部

歴史解説・紹介

  神社合祀令


今から100年前の明治39年(1906)に「神社合祀令に関する」勅令が発布されて、地方の集落神社が国家統制の下に実施された神社整理の嵐が全国を吹き荒れた事を、よく御存知の人と余り知らなかった人があると思います。
私は後者の方でこの事を知ったのは平成17年7月21日に放映されたNHKの「その時歴史は動いた」でした。

その「神社合祀令」の顛末の概略は次の通りです。

時代背景
・明治初期には神官の給碌は公費支出されていたが、間も無く廃止された。
・その後、神職会は、神社の公共性と国家の宗祀としての役割を明らかにし公費支出の復活を図った。

国の動き
 明治34年(1901)の第16帝国議会で各神社の社格の格付けに伴う神饌幣帛料支給の法律が提案され衆議院で可決されたが、貴族院の反対で不成立となった。その理由は、神社の数が多すぎて財政上無理であるということであった。

 次の対策として、神社の合祀によりその数を減少させる国家統制が始まる。具体的には、勅令96号による神社合祀と、勅令220号により合祀による神社境内跡地は、樹木の伐採も含めて地元に無償で払い下げ可能となる。

合祀令による神社整理の実態
 この国家統制は、法律でなく勅令によるもので、その推進は地方長官(府県知事)の裁量に委ねられた。その結果、府県によって、その徹底度はかなり大きな差を生じた。
A 激甚県 減少率87%の和歌山県、他4県
B 強行県 減少率64%の大阪府、他7県
C 順応県 減少率33%の滋賀県、他21県
D 無視県 減少率11%の京都府、他11県

 合祀された神社は、低格神社ほど合祀整理が徹底されて、社格による合祀の差が大きく神社総数は、全国で40%減少した。
 内容は、官国弊社および府県社・郷社は逆に五%増加、村社は15%減少し、無格社は50%にまで減少した。

 全国平均で神社総数は、明治39年(1906)に19万余社あったが、明治末期には11万から12万社まで減少し合祀整理された。

神社合祀の反対運動
・その理由
 T 経済を主とした政策で国民
   の敬神思想が衰退する。
 U 国民の生活習慣の無視と、
   地方自治権を侵害する官僚
   的画一的合祀に反対。
 V 合祀後の神社境内跡地の自
   然破壊と、それに伴う私利
   を図る者の続出。

 反対運動のリーダーは、南方熊楠や柳田国男らの民俗学者で、明治42年(1909) 9月より開始。(注)この辺のくだりが「その時歴史は動いた」で放映された。

神社整理の終息
 明治43年4月に整理強行にストップがかかる。明治44年7月、和歌山県で未合祀社の存続を認めるに至った。大正末期には、合祀された神社の復祀が認められ事実上神社合祀は終息することとなる。

まとめ
 神社整理が当時の内務省の政策課題として、本格的に取り上げられた明治39年から方針を転換した明治43年までの4年間は、行政効率の論理が生活防衛の理論を圧倒した一時代だったと言える。
  (注)以上引用した参考文献 森岡清美著『近代の集落神社と国家統制』吉川弘文館 
1987年5月20日刊行 

後記
 私の居住する東近江市北須田町の区有文書の中に「合祀規約取組書」と「設立趣旨」の2通の神社合祀に関する古文書があります。
 前者は、北須田の村社「守国神社」と南須田の村社「五十余州神社」の合祀が、明治42年2月14日に双方で合意されたが、翌明治44年9月5日に解消されているものです。

 後者は、隣接する当時の大字能登川・安楽寺・北須田の三者で、伊庭祭りの五社中「繖峯三神社」と「望湖神社」の二社(共に無格社)の合祀整理に対し、一致協力して反対する同盟の設立趣旨書です。

 前者も後者も神社合祀旋風末期のもののようですが、何れも合祀は実現せずに済む結果になりました。特に後者の合祀が、若し実現しておれば、現在の滋賀県選択無形民俗文化財の『近江の奇祭・伊庭の坂下し祭』は、どうなっていたことか?

 この時期に当事者に対して、どのような圧力がかかっていたのだろうか、詳しい状況等は古文書の資料だけでは不明ですが、神社合祀騒動の中で、村の指導者達が苦悩の対応を強いられていた事は、容易に想像できます。
  我が郷土史の一齣でした。

(川村)



       

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