近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 十三佛の廻り念仏について


例年5月15日に近江八幡市日牟礼八幡宮で行われる十三佛の廻り念仏は神社の拝殿に仏画を奉掛して宮司の祝詞奏上、お神楽の奉納、榊の奉献と神事が進み、続いて仏光寺八幡別院西方寺住職が導師となり、参列者は念仏と現世利益和讃を唱えます。

神道の宮司と佛教の僧侶が同席して行われる神仏習合の祭事は他に例を見る事はありません。「宮念仏に堂神楽」 といわれた八幡宮拝殿に於いての念仏和讃は神仏習合の様子を現在に見ることができます。幾多の変遷をへて500余年、今に伝えられているこの祭事についてお話しを致します。

時代は延徳元年(1489)より明応元年(1492)までの間近江に疫病が流行し、多くの死者が出ました。近江蒲生郡大嶋郷宇津呂の荘十三ヶ村(近江八幡市で日牟礼八幡宮松明祭り氏子の村)の村人が時の足利義尚将軍に病魔退散を嘆き訴えに対して将軍家が受理され、将軍より仏光寺の光教上人へ下知されて十三ヶ村より神社鳥居下にあった西方寺から本山仏光寺へ疫病退散祈祷を願い出ました。
 光教上人は本山伝来恵心僧都図画の阿弥陀如来の絵像を十三幅写させて、十三ヶ村へ下賜され、さらに現世利益和讃十五首ご染筆為されて「伝教大師七難消滅を祈祷し念仏せよ」と仰せられて十三ヶ村惣中へ下されました。

 お受けした村人は八幡宮の拝殿にその十三幅を掛け奉り、金色の後光を放つ阿弥陀仏像十三仏を拝観した村人は涙を流して喜び合い宗派の別無く異口同音に念仏並びに現世利益和讃をお唱へし、それから村々でも絵像を掛けて念仏の和讃を勤めたところ、猛威をふるった疫病も止むにいたりました。誠に七難消滅の法には南無阿弥陀仏を唱えるに如くはなしと悪病平癒の祈願を続けました。

 将軍は当時近江鈎に陣を構えていましたが、陣中にて病を患ったとき、光教上人の祈祷で快癒しました。この事を知った村人達の訴願が功を奏したものと思います。

以来その法徳を敬い毎月15日十三ヶ村の氏子は阿弥陀如来の画像を持ちより八幡宮の拝殿に於いて和讃と念仏を厳修しました。年12回の他、5月8日は八幡宮来臨の日、春秋彼岸中日、5月には仏光寺八幡別院西方寺でも行われて参りました。

 記録によると天正4年(1567)5月織田信長の家臣丹羽五郎左衛門の尋問について、上記由緒と八幡宮氏子十三ヶ村は古来より無量寿佛の影像を村々に安置し毎月15日は村々順次廻り、八幡宮本殿に於いても5月20日相勤事是則八幡宮来臨の日也、両彼岸正中日和讃念仏して神楽を奏すること永代不易に権盛なり。のお答え書が芦浦観音寺の信長陣屋役所に出されています。

この事は信長が廻り念仏の集まりについて、真宗門徒衆の一揆が続発していた時代なので調べさせたものと解することができます。

 時は下って嘉永5年(1852)9月光教上人の350回忌に際し、仏光寺本山にて5昼夜法要に近江八幡よりこの十三佛を里帰りさせて、当時の門首より数百年の間途絶えることなく続けてきたことは、諸国の法義の手本になるとの御書がくだされた記録があります。

 しかし明治政府は神道を国の宗教と位置付けました。それまでは神と仏が一緒に祀られる場合が多く、大きな神社には神を護る仏さまが大きな寺には寺を護る神さまがありましたが政府の神仏分離政策のもとで神社と寺院が区分けされました。

 その為八幡宮拝殿で念仏和讃は執り行われなくなりました。又一部の村護持の阿弥陀佛掛け軸が紛失しました。旧家の所蔵仏画を補充して、講から抜けた村の数だけ個人が入講して、廻り念仏和讃は続けられていました。八幡宮での廻り念仏和讃は願成就寺とまた西方寺で行われました。

 終戦後、昭和23年(1948)に八幡宮拝殿において再び神仏習合の念仏和讃が復活を致しました。八幡宮では氏子の病魔退散家内安全祈祷の行事として神仏習合のご祈祷札を全戸に配布されています。
当地では天変地異の災害にも遭うことも無く安全な暮しが続いていることに500余年の廻り念仏・現世利益和讃信仰のおかげと感謝しています。

平成14年(2002)に仏光寺で行なわれた光教上人500回忌法要に際して里帰りをいたしました、荘厳なる本堂に奉掛けし門首を筆頭に数多くの僧侶と壇徒の和讃・お念仏に接した時、幾多の変遷を経ながらも人々の護持のもと続けられてきた事に信心の尊さと近江人の信仰の深さを知りました。正しく次世代に引き継がねばならぬ責務を痛感した次第でございます。

(小根田)




  

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