近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 物部守屋大連公について


浅井町畑に鎮座される、式内社波久奴〈はくぬ〉神社の御祭神は物部守屋大連公で、田根の庄15ヶ村の総社で地元では、守屋公が此拠に祀られていることを確信し、1,400年来崇められている。

ところが約80年程前、当時の東浅井郡役所が中心になって編纂された、東浅井郡史の記事には、守屋大連は用明天皇2年7月3日に河内の国渋川郡衣摺〈きずり〉(現東大阪市衣摺)にて迹見赤檮〈とみのいちい〉のために射殺されたとなっている事疑うべからず。

守屋公の墓は河内の国龍華寺にあり、田根に逃れて来たとは、妄誕〈もうたん〉信ずるに足らず、と記されているが、引用せられた古事記・日本書記は天武天皇が太安麿に命じて作られたもので一方的で近江勢には、悪く記載されている事は近年識者の認めるところである。
またその外波久奴神社について、四ッ程の説を述べて置かれるが、いづれも著者の主観によるものと思われる。

当地に伝わる波久奴神社の由緒は、正徳7年(997)の萩野詞記と言う1,800字に及ぶ難解の漢文を、後世訳文されたものをごく簡単に要旨だけを記すと。

神仏論争中の蘇我氏と物部氏の対立は、皇位継承の争いで端を発し蘇我氏達に攻められて、退いて防戦したが、利あらず味方は殆ど創き最早是迄と言う時に、従者の漆部巨坂〈こさか〉が公の身代わりとなり此の地に防ぎ留り故に衣服を賜りたいと乞う、弟の小坂も強く勧めて、主従二人で落延びる事になり、伊勢路を経て采地〈さいち〉の北近江に入り村の長、馬父地〈まぶち〉を尋ね、事の次第を告げし處、追手の目を逃れるため、小谷山東側の巌窟に御案内し食事を運びお隠し申した。

日が経って小坂をして大和の情勢を調べたところ、聖徳太子の善政により、平穏になっていると聞き、最早都には用がなく、萩の繁る野に庵を建て土地の人に読み書きや水利、治水の事等いろいろ教えたので村人から、亡き後祠を建てお祀りして敬ったと伝えられる。

この萩野詞記を裏付けることを三件ばかり挙げると。
時の従者小坂と村の長、馬父地の後裔が今以って由緒により奉仕を続けて居られる。
丁度この事とよく似た事は、郷土の先哲、相応和尚のゆかりで大津葛川明王院を尋ねたとき、昔和尚を山中の三の滝へ案内した、常満・常喜の二家がずっと千余年も明王院を守り行事に携わって居られる事。

又途中村の宮腰家は夏安居の息障回峰の折立ち寄られる、多くの修行者に家を開放し、食事を饗応される事がずっと58代も続いているそうである。

次に守屋公が隠れ住まわれた巌窟は本宮と称し、故事に因んで昔から10月には神送りの儀、又2月初亥の日には御迎えの儀が続けられている。
昔から旱魃が続くと、雨乞祈願するも雨がない時は、氏子15ヶ村協議して、一斉に宮鉦を叩きながら長い道中を本宮まで参り祈願する、俗に本宮参りと言う雨乞行事が戦前までは度々行なわれた。

最後に西池のことであるが田根の庄は谷が浅く谷水だけでは田が養い難く、20数個の溜池があるが、西池は特に大きく面積も10ヘクタールに及び高畑、瓜生郷60ヘクタールを潤す大きい池である。
天然の地形を利用して堤を築き、千余年の間災害もなく、誠に秀れた工法の池であると言われている。

先年水鳥保護のため、池の北部に休息地の中島を作るのに、大阪の超大型のショベルカーによる土盛した業者が「こんな古い泥は今迄全国中仕事しているが3例目だ」と千年以上前に造られた事が証明された。

以上で我々氏子の崇拝する萩野大明神は物部守屋公であると言い伝えを信ずる所以である。昔から「言い伝えは作れないが、書いた物は後でも出来る」と、言われた事を成る程と思う。

(浅井町高畑  矢守)



  

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