近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


長安寺の牛塔

  
大津の町の旧東海道を北国海道(西近江路)と分かれる札の辻(大津市京町一丁目の交差点)から逢坂山に向かって歩くと、右手に逢坂の関山が見えてくる。この麓の一角に長安寺がある。

この寺は逢坂関に隣接して建っていた関寺の法灯を受け継ぐ寺院と言われる。「関寺縁起」によると平安時代には三大仏の一つ、五丈の弥勒菩薩を安置していて、これが広く都にも知れ渡り、多くの参詣者で賑わっていたという。

しかし天延4年(976年)の大地震で、この大仏と堂宇は破損してしまうが、その後延暦寺の僧 延鏡(恵心僧都の弟子)により再建される。この再建工事のとき、清水寺から寄進された牛が大いに工事を助けた。その牛は色々と奇潭を現したが、やがて仏の夢告があって、実は迦葉仏(釈迦以前に出現した仏)の生まれ変わりで、弥勒菩薩の霊場である関寺の工事を助けるために来られたものであるとの噂がたった。

このことが世間に広まり、この牛に因縁を結び、その功徳にあやかりたいと貴族をはじめ多くの人々が参祀した。
万寿2年(1025年)関寺の再建が完成をみたのに相前後するかのように、霊牛も入滅し、堂の裏山に埋葬された。のち、時の太政大臣藤原道長は、公家百官を率いて参拝し霊牛を供養するとともに、牛を埋めた地に大石塔を建てその菩提を弔ったという。

これが「関寺牛塔」(うしとう)と呼ばれ、今に残って長安寺の境内にある。
この塔は高さ一丈(約3.3m)、八角型の礎石の上に周囲16尺の巨大な壷形の塔身をおき、笠石をつけたもので、この種の宝塔としては最古且つ最大、姿も重厚優美で重要文化財に指定されている。

なおこの寺は、鎌倉時代に遊行僧一遍上人が留錫したことから時宗となり、浄土念仏の道場となった。慶長5年(1600年)京極高次が、関寺の門を固めて逢坂の通行を塞がせ、大津城に籠城した際、西軍によって放火されて焼失し、それ以来殆ど廃滅して僅かに一小庵を残すのみである。

また長安寺近辺は伊勢参宮名所図絵にも載っている謡曲「関寺小町」の舞台であり、鬱蒼とした境内の片隅に、小野小町の供養塔がある。


(会員 小林 )



  

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