近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


  朝鮮人街道ウォーク
     第1回 鳥居本から日夏まで


 この度朝鮮人街道を3回に分けて名古屋方面の人たちにガイドすることになりました。
 朝鮮人街道は、現在の野洲市行畑地先から中山道と別れ彦根市鳥居本で中山道と合流する間約40km近い道程を指します。

朝鮮人街道の名の由来は、太閤秀吉が朝鮮侵略を起こしその死によって終息した後、国を統一し江戸幕府を立てた家康が朝鮮と国交回復を図りました。これに呼応した朝鮮は1607年に第1回の使者を我国に派遣します。

朝鮮通信使と呼ばれた人達でした。大坂に上陸後、淀川を京都伏見まで遡り陸路近江に入りました。

草津から中山道を通り守山で一泊、早朝旅立ち野洲から脇道朝鮮人街道を利用します。
なぜ脇道に入ったのか諸説がありますが、大方は通信使が多数の人々であり昼食、宿泊に適宜な場所として近江八幡と彦根を手当てしました。

また通信使の接待、供応に財政豊かな八幡と彦根を頼ったとも考えられます。また一説には家康が関ヶ原の戦いで勝利し都へ凱旋の道、徳川家にとって吉祥の道の意識があり度々この道を利用している事から指定をしたとも云われています。

 通信使はただ歩くだけでなく文化や情報を各地に届けていたのでした。

さてガイドは野洲市からでなく、東方面の鳥居本からスタートしました。
中山道、鳥居本宿の町並みを歩く。
宿場の赤玉神教丸本舗や合羽の特産品の説明などしながら分岐点に着く。
「右彦根道 左中山道 京いせ」文政10年に建立、ここから彦根伝馬町に向かう。

ここが朝鮮人街道の始まり。

   

今はラブホテル街の中を右折して(細い道)国道八号線トンネルの横につくられた歩道を通り抜ける。旧道は佐和山の上にあったが跡形もない。右手石田三成居城であった佐和山城址への上り口がある。南下しJRびわこ線の地下道を越え町並みを進んで行くと船町に入る。

朝鮮人街道は左側に曲がる。虫籠窓を切った白壁と紅殻格子が美しい絹屋半兵衛旧宅がある。彦根城を右手にお堀やいろは松並木を見て古い家並みの立花町に入る。

ここが伝馬町の跡である。城を後ろに新しくできたキャッスルロードを行くと通信使一行の宿泊所「宗安寺」に着く。この寺の赤門は旧佐和山城の大手門を移築したもので、南側にある黒門は通信使のために食料品獣肉等の搬入に使われた。

 4番町で昼食をとる。暫時休憩後ひこね銀座商店街を「久左の辻」で右折して橋本商店街を西へ、左奥は紅灯の町袋町である。

芹川の橋をわたる。川岸は江戸時代に植林された欅の大木がつながる壮大な眺め。昔、彦根の野辺送りはここまでで、4キロ先の平田山が葬祭場であった。
少しいくと橋向町で左折し、細い小道の突き当たりに「番町皿屋敷」の物語で有名な「長久寺」がある。

今も「お菊さん」の墓があり残りのお皿数枚が残されている。街道に戻りさらに南行すると昔、井戸があって朝鮮通信使や旅人が水を飲み休んだところとか、今、井戸は無く松の古木がそれらしき面影を残している。 

街道を右折して「明照寺」に入る。松尾芭蕉の愛弟子「李由」が住職の縁で、芭蕉が元禄4年に訪れた。
境内に翁の形見の笠を埋めたとされる笠塚がある。再び街道に戻り西今町に至ると「十王村の水」とよばれる全国名水百選に選定された湧き水が街道脇にあり池中に六角形の祠が建てられている。

宇尾町をすぎ犬上川を渡り堀町の外れから左折する。直進、甘呂町で左へ、旧日夏町内を歩く。中程の日夏郵便局前で第1回の街道ウォークはここまでとし左折して河瀬駅に向かい解散とする。12キロの歩行距離であった。

次回は、本来ここから稲里町に入り旧稲枝村を通過、愛知川を渡り、能登川町へ辿るのが本筋ですが、道中は田畑が広がるのみで史跡も無いため割愛して、能登川駅を起点に近江八幡市までの予定です。

                                                (嶋口)


  

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