近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


  南北朝動乱の近江を歩く

この時代のうち、光厳天皇(こうごんてんのう)の即位(1332年)から崩御(1364年)までに絞り込み、佐々木一族の歴史を辿り、南朝の攻撃による四度の都落ち(その内3度まで天皇奉戴)の跡を巡り、最後に六道輪廻を見て来た天皇弔いの旅をします。

光厳法皇像


1.佐々木一族の歴史を辿る
この時期の佐々木一族は鎌倉幕府からの信頼厚く、京都に政治拠点を持ち、嫡家六角氏から庶家が続々生まれたその発展期に当たります。

嫡家佐々木六角氏と古代からの沙々貴氏の共通の氏神沙々貴神社には、日露戦争で有名な乃木希典も宇治川の先陣で名を挙げた家綱の子孫で、ここに乃木希典夫婦が祀られています。

六角佐々木氏はこの時期、観音寺城を中心にその家臣団は45を数え夫々城を持ち、その名は現在でも地名(目加田、馬淵、蒲生、儀俄、)で残っています。

京極佐々木家は、氏信が柏原館と伊吹山太平護国寺付近に太平館を設置、美濃国境から北近江の支配権を握った。氏信から3代後の道譽はこの時代に際立った活躍をし、京都、甲良の勝楽寺にも政治舞台を持ち、時代を動かした。

清滝寺徳源院はその後650年続いた京極家37代領主の宝篋印塔が祀られています。道譽の建立した勝楽寺は当時城郭化されていた。この地は当時、戦争、将軍の京都逃亡時の道譽の政治軍事基地でした。現在も遺構はあり、城跡、見張り台、等があります。


  清滝寺の京極家墓所

また墓所池があり往時を偲ばせる。ばさら(なにものにも捉われず派手奢侈自由に振舞う)を地で行った道譽は応安6年(1373)に78歳で死去。

柏原の隣地に大原家が経営した大原城(現在跡地)があります。京極家とは同格で、信綱の長男重綱が開いた。大原観音寺は、大原氏の庇護を受け寺院を整えた(大原観音寺文書が有名)。

志賀谷に大原氏の菩提寺光明院があります。また三島池、三島神社の三島という名前は伊豆の三島大明神を秀義がこの地へ勧請したと云われています。

 信綱の次男高信は高島荘を開く。高島七頭または西佐々木七人とも呼ばれ、七か所(越中、朽木、永田、田中、横山、平井、能登)を夫々分割統治しました。

その一つ、朽木家(朽木家文書には京都の政治と直結しているものが多数あります)は、明治維新まで650年間続き、後の足利幕府や信長との関係も深い。菩提寺は興聖寺。

これらの謂れの場所を隈なく歩き、京都、越、鎌倉との関連で近江が地政学的戦略拠点であるということ、このことが又、人物を生んだということを強く感じました。

2.天上・修羅・地獄・人間・畜生の場としての近江
この時代北朝の悲劇の天皇(『地獄を2度も見た天皇』飯倉春武著とか、『廃帝』森真沙子著という題名で小説があります)の跡を廻ります。

〔天上〕光厳天皇は正慶元年(1332)に即位。天上になられた。
〔修羅〕正慶2年(1333)年5月、両六波羅探題都落ちし、北条仲時に連れられ逃亡途中、逢坂の関で流れ矢に左腿に突き刺された。

〔地獄〕番場の蓮華寺で進路を断たれ仲時以下432名腹切る場面に遭遇。血は人々の体をひたし、まるで黄河のようでした。またこれらの屍は庭に充満し、まるで解体された獣の肉のようでした。

天皇はこの様子をご覧になり、気を失わんばかりで、ただ茫然としていらした。直ちに、伊吹山太平護国寺において官軍、佐々木道譽、立会の上、三種の神器以下が没収された。また後醍醐天皇により廃帝された。

〔人間〕その後時代に弄ばれた。南北の力関係の変化によって北朝の治天の君として重く用いられたが、上皇(法皇)にまでなられました。

康永元年(1342)洛中にて土岐頼遠により狼藉(畜生)を受ける。『何、院というか。犬というか。犬ならば射て落とさん。』

3. 戦場と逃亡先としての近江
文和元年(1352)年2月、南朝軍 京都を攻略 足利義詮近江へ逃げる。逢坂の関で道譽が待ち受け、四九院の唯念寺に迎える。そして京都へ帰る時は、壱岐志呂神社で暫し休む。

同年7月、八重山・蒲生野戦争。観応の擾乱の近江版。尊氏側には佐々木道譽、直義側には六角定詮がつき、虎御前山(八重山)では尊氏側の勝利、蒲生野(船岡山、観音寺城、玉尾山、他)では直義側が勝つ。神照寺で兄弟和睦。尊氏お手植えの萩の木が今もあります。

一旦は和睦しますが、直義は鎌倉へ入り、尊氏も直義追討の宣旨を受けとって鎌倉へ向かいます。

文和2年(1353)6月、足利義詮は後光厳天皇を奉じて西近江路を堅田・和邇・塩津・海津を経て美濃国樽井まで逃亡。

文和3年(1354)12月、足利尊氏は後光厳天皇を奉じて江洲武佐宮、長光寺とも、(瓶割山の山麓にあり城砦化されていた。)へ逃れた。

康安元年(1361)12月、やがて東寺で義詮将軍を警護し申しあげていた軍勢も、どう思われたか、五騎、十騎と逃げて行った為、この状態では京都では戦争は出来ないとして、新将軍は苦集滅路を経て近江武佐寺へ逃げられた。

後光厳天皇は置き去りされたが、梶井天台座主が坂本から迎えを遣わされ五百騎で主上を警護申し上げ、将軍の跡を追って近江武佐寺へ臨幸された。武佐寺には当時の様子の由緒書きと後光厳天皇の石碑があります。

都落ちに際しても道譽は、京都の自邸を見事な調度・美術品で飾り立て、酒肴を用意しておくのであった。(ばさら)

4.六道輪廻の飢餓を経て京都丹波山国での隠棲と薨去
文和元年(1352)3月、光厳上皇以下3公達は、京都より賀生名、天野山金剛寺へと幽閉された。〔飢餓〕厳しい捉われの生活を約2年間過ごされた。

金剛寺には北朝の公達、南朝の公達も何年か一緒に過ごされました。光厳法皇が過ごされた玉座は今もあり、拝見しました。

貞治元年(1362)、光厳法皇は諸国行脚に出る。難波、紀ノ川、高野山、吉野。吉野での述懐。

『天下乱れて、一日として平穏な日はなかった。元弘の始めには近江国番場まで落ちていき、四百人の兵どもが思い思いに自害した中にあって、生臭い血に心を失わせ、正平の末年にはこの吉野山に幽閉され、2年間は刑罰に苦しめられて、世の中はこれほどつらいものだったと、初めて驚くことでした。・…』

                          常照皇寺

貞治2年(1363)、丹波国山国の常照皇寺へ隠棲。翌年(1364)7月、薨去52歳。
今もこの寺に光厳法皇を祀っており、肖像が御座います。恭しく参詣申し上げました。また裏山に御陵もあります。
時代はここまでこの天皇を翻弄したのか、人間として深く尊敬申し上げ、結びます。


                                                (宮崎)



  

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