近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


  地名の匂い


 私は生来凝り性で探索癖が強かった。
 それが、人名であっても地名であっても、固有名詞は語呂の類似とか表記の相似とかを並べてみるなどして、それから文献や資料を漁ったものである。

 高島市域には「大字黒谷(くろだに)」とか「大字白谷(しらたに)」など集落の背景に因んだ村落名がある。「青谷」や「赤谷」という小字名もよくある地名だが、どうしてその様に名づけられたのか探求するのも面白い。

 わが家の居間から望見できる山肌に地元の人達が「赤谷」と呼んでいる凹みがあって、そこには細い谷水が流れていた。

もう20年も前のことだが――もしかしてその辺りに赤味を帯びた岩盤でもあるのではないか――という探索癖がうごめいてゴム長靴で、残雪を踏み乍ら入ってみた。バイパスから10mほども登ったところで仰天した。文字通り真っ赤なものが点々とあるではないか。

 近づいてよくよく観察すると、落ち葉の上を覆っていた雪が融けてその間から、石佛に掛けられていた涎(よだれ)かけが覗いていたのである。

ここは眼下に広がる南浜地区の昔の水子墓地であると教えられて、何体もの古い地蔵のあった訳は合点できたのだが、地蔵の赤い涎かけが「赤谷」という名の由来ではないと判ると更に探索をしたくなった。

 春先に赤い花の咲き乱れるツバキの群落があるのではないか、それとも降霜の頃に際立って目につく紅葉樹が遠望できるのではないか、季節ごとに観察を怠らなかったのだが、一帯は饗庭野台地に続く赤松と広葉樹の混淆林で何の変哲もなかった。

 或いはまた、古代、丘の中腹にあった天台堂庵から毎日のように紗弥(しゃみ)が現れて、閼伽(あか)の水を汲んで行った湧水があったのではないか、とも思ったがここで私は、両眼を広角レンズに切り換えて、隣接地帯の地名を地形図で調べることにした。

 先ず目に入ったのは、この谷の北側にある[今津町大供]天川(あまがわ)の谷である。
この川は饗庭野台地の何本かの細流を集めて東流する流路四キロ弱の一級河川である。

高島市域の地形図


 次いで尾根を隔てて南側の[新旭町饗庭]に東流している波布谷川(はぶたにがわ)の谷で、この川も一級河川ではあるが流路は約一.五キロで水

 問題の赤谷は、この二つの谷の間に位置している。地形図で鳥瞰すると、西向きに伏して居る巨大な恐竜の尻尾が湖面に沈む部分に相当するところで、国道も湖西線も湖周道路もみなこの一点で交わり、この尻尾部の尾根を切断して今津へ入っている。
国土地理院はこの赤谷の細流を庄界川と命名しているが、地元の人達の間には馴染んでいない。

 この谷川の水系は短いが可成りの落差がある為に、多年に亘って両岸や川底が削られて川下の南沼を埋め続け、昔は良い舟溜りであったが今では田舟も浮かべられぬと人は云う。
                                          
 蓮如上人遭難碑   
その湖岸から細流を辿って2kmほど遡ると、写真のような碑が建てられている。
これは、文明3(1471)年、越前へ布教活動に向かっていた蓮如上人が追っ手にかかった時、難を避けて隠れた洞穴がここにあると伝承されているからである。

 天川は、その昔熊野山と呼ばれて木津と、善積庄(よしづみしょう)とが再三境界を争った草刈山を水源としているが、その原野も今や自衛隊の演習場となって、琵琶湖への濁水流下を防ぐために天川ダムが建設された。

この時発見されたのが現在市立今津図書館前に横たわる鉄滓である。


           
今津図書館前の鉄滓

奈良に都ができる以前に、製鉄技術を持った渡来人がこの天川の谷間で活躍していたことが、これによって立証されたのである。
 このほか、上流の段丘部には甲塚(かぶとづか)とよぶ古墳群があり、下流の扇状地からは古代廃寺の軒瓦などが多量に出土した。

 別の天川谷が台地の南西麓[安曇川町上古賀]にもあり、石田川と背中合わせに天須(あます)川もあって、古代海人族の余韻を感じるのも私一人ではあるまい。


                                                (澤田)


  

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