近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


   北国海道を歩く
     第2回 大津市坂本〜堅田


 JR湖西線比叡山坂本駅をスタートし脇道を右折して、比叡辻近くにある「聖衆来迎寺」に向かう。
同寺は延暦9年(790)に最澄が開いた古刹で、源信僧正が念仏教化の道場として再興。山門は旧坂本城の表門を移築したといわれ、本堂に隣接する客殿は国の重要文化財である。
又、本堂、開山堂、山門の三点が重文指定なるであろうと今春に新聞紙上に掲載され、近く、正式に発表されるでしょう。

織田信長による比叡山焼き討ちに際しては、同寺に信長に仕えた森蘭丸の父、「森可成」の墓所があったため、難を逃れ、多くの寺宝が残っている。

                             森可成の墓

同寺を出て脇道に戻り、北上して進んだ先の苗鹿3丁目辺りで北国海道に合流、入口に常夜燈が立っている。

弘化4年(1847)の建立で基壇に常夜燈の文字と寄進者(附近の有力者達)の名が刻まれている。

更に行くと右手に「那波加神社」がある。
社伝によれば祭神の天太玉命が降臨し太古から鎮座された。その後、老翁となった命の農事を助けるため、鹿が現れて稲の苗を背負って運んだとのいわれから、この辺りを「苗鹿」と名づけられたと言われている。

村社→郷社→明治5年に県社と昇格している。旧道を進んでいくと2011年2月にオープンした「おごと温泉観光公園」がある。

更に北に進んでいくと左手に「福領寺」がある。江戸時代初期に廃城となった雄琴城址に隣接し開創されたと伝わる。

ご本尊の木像阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。同寺の奥に郷社である「雄琴神社」がある。祭神は小槻氏今尾宿禰を主神として祭られている。

旧道を少し行くと右手に「滋賀院領堺碑」が立っている。
江戸時代は雄琴村一村全部が坂本の滋賀院門跡領となっており、かっては村の北と南の村境に立っていたのを、この地に移設されたとのこと。

旧道をこのまま北へ進んでいくと、旧堅田町衣川地区に入っていく。住宅街は国道161号線沿いにあり、旧道は山手に161号線と平行していく。

衣川は北国海道の宿場町として伝馬2頭、宿駕籠1艇が置かれていたとのこと。

更に北へ進んでいくと左手に「梅之宮神社」がある。安産の神様で祭神は酒解神。神伝によれば、創祀年代は不明だが、正応5年(1292)に猪飼道盛により山城国葛野海津に座す梅宮大社の分霊を勧請したと伝えられている。

後土御門天皇、明応8年(1499)近江守護佐々木高頼の夫人が安産の宿願あって社殿を再建、以降佐々木氏に代々崇敬され、志賀梅宮大神と称される。

梅之宮神社の裏側、湖西線の西側に「衣川廃寺跡」がある。

衣川廃寺跡

大正12年、江若鉄道の施設工事中に瓦が出土して、初めて遺跡の存在が明らかになり、昭和46年JR湖西線建設に先立ち行なわれた発掘調査で、飛鳥・白鳳時代の瓦が大量に出土するも遺構は発見されず、その後昭和50年に詳細な発掘調査が実施され、二つの建物跡、瓦窯等の遺構が確認された。 

東方の建物は塔跡で北方の建物は金堂跡と見られている。衣川廃寺は7世紀中頃に創建された滋賀県最古の寺院であったが壬申の乱によって焼失したとみられる。

その先、住宅街の公園内に「衣川城跡」の碑がある。寿永3年(1184)粟津合戦にて勲功を立てた山内義重が衣川領を賜り築城。

その後340年余りに亘ってこの地を治めて来たが、太永6年(1526)に山内宗重が細川入道高国の奇襲にあい城は落城した。

その先住宅街の外れに「鞍掛神社」がある。祭神は大友皇子(弘文天皇)で、社伝によれば、壬申の乱の時「瀬田橋の戦い」で敗れた後、この地にいた本田氏の屋敷まで落ち伸び、柳の木に鞍を掛け、この地で自刃したと伝わる。

その時、付き添ってきた侍臣(中村一族)はこの地で帰農し、子孫が代々皇子の神霊を祀ったといわれる。
元慶6年(882)陽成天皇の勅命によって、創建された神社の名はこの故事に由来している。

氏子は8家族だけでいずれも「中村」姓の侍臣の子孫達で、皇子の命日7月23日(現在は7月第3日曜日)に祭が執り行われている。

ここより旧海道仰木道交差点に向かう。交差点の側に二股の榎の大樹と白鬚大明神道標が立っている。

右側面に「天保7年丙申仲秋」、左側面に「京都寿永講中」とある。榎の大木は仰木に向かう分岐点に立ち、北国海道の一里塚の役割を果たしていた。ここより旧海道を北上してJR堅田駅に到着。

                                                (嶋口)


  

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