近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


   八橋道を歩く
    〜「急がば回れ」の語源をたずねて〜


 東海道五十三次の中、52番目の宿場町"草津宿"は、今も現存する「草津本陣」(国指定史跡)をはじめ、数々の歴史を物語る社寺仏閣が数多く残されています。そして、東海道・中山道を始めとする由緒ある街道があります。

 今回はその中でも表題に関係する「矢橋道〜大津宿本陣跡」を"歩きながら"、また"船上から"紹介します。
                                    新宮神社本殿
       
 スタートはJR南草津駅から先ず東海道を東方向に歩き「新宮神社」へ。
本殿は一間社流れ造(国重文)、表左側の門は膳所城の北水門が移築されたもので、瓦には膳所藩本多家の紋『右はなれ立葵』がそのまま残っている。



                    
そこからさらに約300m行くと、左側に「遠藤家」がある。
入って庭の奥に『平清宗』の胴塚がある。壇ノ浦の合戦に敗れ、源氏方に捕われた清盛の孫で、当時14歳であった清宗が、ここ野路口において堀弥太郎景光によって斬死(吾妻鏡に記されている)。

首は京六条河原にさらされ、胴体はこの場所に埋葬された。遠藤家では毎年命日の6月21日には法要されている。我々草津市観光ボランティアガイドのメンバーも法要に参列している。

 さて、そこから数百m先に「野路の一里塚跡」がありしばし休息。街道を東北方向に向かうと「矢倉道標」が左側に立っている。

寛政10年(1798)建立。当時ここには立場茶屋「うばがもちや」があって、東から来た旅人はこのまま街道を真っすぐ西へ瀬田より大津へ向かうか、右方向より「矢橋道」を行き矢橋港より湖上を大津に向かうかを「うばがもち」を食べながら思案したらしい。

「瀬田へ廻れば三里の廻り、ここが思案のうばがもち」と歌われたという。
 「急がば廻れ」のことわざは 室町時代の連歌師・宗長の詠んだ歌

     "もののふの矢橋の舟は早くとも 急がば回れ 瀬田の唐橋"
      これが語源となっている。

矢橋道を港に向かって歩く。「若宮八幡宮」「猿田彦神社」「天神社」を通過して、矢橋町に入る。

すぐに芦浦町にある名刹「芦浦観音寺」への「芦浦道」を右に見て更に進むと、左側に「鞭崎神社」が見えてくる。

    
                          鞭崎神社表門

この神社の表門は膳所城南大手門(国重文)が移築されている。
神社の真向かいに「旧十王堂跡」があり、近松門左衛門不朽の名作といわれ、浄瑠璃、歌舞伎に上演された"冥土の飛脚"のモデルである主人公"梅川"が罰を免れ、晩生を過ごした場所ともいわれている。

道は「浜街道」を横断し、お梅が埋葬されている「清浄寺」に至る。毎年11月6日の命日に法要が営まれ、我々ボランティアガイドメンバーも参列している。

更に最澄が、琵琶湖対岸の比叡山より天狗に石を投げさせ、矢橋に落ちたので「石津寺(石が着いた所の意)」(国重文)と名づけられた古寺がある。

それから約300mで近江八景の一つ"矢橋の帰帆"で有名な「矢橋港跡」に着く。
桟橋であった石積みは今も残るがすっかり埋め立てられ、昔の面影は常夜灯と枯れかかった松が2〜3本ある程度である。

 この港跡から歩いて20分ぐらいで矢橋帰帆島(人工島)の学習船「うみのこ」専用の桟橋に到着。琵琶湖汽船よりのチャーター船ランシングシティ号に乗船し、南方向に向かう。

湖の東西両岸の説明をしながら「瀬田の唐橋」を通過し、「石山寺」附近でUターンして「大津港」へと向かう。所要時間約40分、両サイド、南方向等にある名所旧跡を丁寧に判り易くガイドして行く。

 大津港に到着して、京阪電鉄浜大津駅デッキ上より、「大津城」の説明をして八丁通りを西北に歩き、札の辻(東海道と北国海道の分岐点)より150mぐらい西の「大津宿本陣跡」に到着して終了となった。


                                                (嶋口)


  

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