近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想

姉川堤を散歩する


東の方には伊吹山がそびえ、姉川の流れも今は枯れて、雑草が延びほうだい、小竹の群れがいつしか土提一面に拡がって、幾すじにも分れた清らかな流れも今は面影をすっかり失っています。

400年前にこの地で織田・徳川、浅井・朝倉両軍の四万を超える将兵らの激戦地だったとは見る限りでは想像もつかない。

浅井町では野村と三田の地区が激しい戦いの地だったと言うのですから、現地の百姓や町民ら家族の中から戦死者が出たり、田んぼの一帯では米づくりもままならぬ時節もあったと考えられるし、権力者達の横暴をにくく思う気持も当然の成りゆきといえそう。後に秀吉は四ヶ村の百姓衆に対して「安堵状」を出して、年貢を免じたので人気の高かったわけが理解できます。

姉川戦で散った将兵は両軍で千七百人と記録が残っていますが、左、右の堤では目をおおう程の血が流れた戦いだった。

将来性のある若い多くの人材を亡くし、夏の草むらではすず虫が鳴き、秋には弱いコーロギの音色が聞えてその昔、いくさの現場だったあわれさが静かに伝わります。

長政26才、信長は49才だったというのですから、現代風ないい方をすれば智え盛かり、働きざかりの年齢だったのです。勝ちいくさの見込みをなくした敗将は川原を背にして北の方角さして一目散に小谷城へひきあげる破目に落ちたとき、どんな思いを抱いた事か。

古戦場の草っ原に立ち6粁ほど北に見える「へき地」の小谷山を望んでも、今は平ぼんな一山にすぎぬ。北岸のつつみの一角には誰がいつ頃植えたのか、30本余りの桜の木が育ちて春には堤一帯がピンク一色に染まる。

いつ頃からかこの辺りを「血原」と呼び三田の皆さんは土地の樹木を育てながら、環境の保全につとめると共に、更に地域では名所を永久に伝え度い、古戦場の名物「チハラセンベー」を代代売り続ける岡商店が営業しています。

流れが8粁に及ぶ姉川も野村ばしの辺りで川幅が最も拡がり、500米を超えると言う。だが水が流れる範囲はごくせまい。
北詰めの橋のたもとには、戦いで散った多くの将兵らの慰霊碑が建ち道ゆく人々の足を時折りとめています。 
                          ( 山田)






  

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