近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


  琵琶湖多景島の「誓いの御柱」


2009年5月12日(火)、例会に参加、上記の記念物を見て感想を纏めてみました。
@五箇条の誓文の意義 
A大正デモクラシーと建立の時代背景 B戦後六十有余年たっての感想、というまとめ方をします。

1. 五箇条の誓文の意義
明治天皇践祚、慶応3年(1867年)16歳、土佐藩の坂本の思想を後藤が山内の名で、大政奉還を慶喜に出させた。(10月)、間髪を容れず、薩長と公卿による『王政復古の大号令』(クーデター)。
この間、天皇は岩倉、西郷、大久保の完全なロボット。旧幕府派の反発、鳥羽伏見、戊辰戦争へと追い込んだ。

明治元年(1868年)3月14日、五箇条の誓文を天皇が紫寝殿で発表。慶喜追討令の前日であった。追討の協力体制を作り上げることが目的であった。
これを後世自由民権運動が歴史的根拠を求めて以来、我が国の立憲思想野の淵源とされ、(近江の誓いの柱も)、戦後も東久邇内閣が新生日本の目標たる民主主義の伝統をここに求める動きもあった。しかしこれはそういう超時代的な抽象概念を示したものではなく、この時点の具体的、現実的な効果を求めて作成されたもの。(遠山茂樹 明治維新による)

       
                      五つの誓いモニュメント

過渡的に公儀輿論政治は9月の奥羽北陸の平定、翌年5月の旧幕府の最後の拠点函館の陥落を経てその翌年(1969年)の版籍奉還を生み落とす。その締め括りは廃藩置県を又もや薩長のクーデターで成し遂げた。261の藩が廃止、三府と302県(後に統合され72)となった。

2.大正デモクラシーと建立の時代背景
明治維新から約50年後、大正デモクラシーが華やかに花開く。藩閥、官僚政治に対する民主主義改革を要求する運動である。(日露戦争から昭和ファシズム体制成立期)

『誓いの御柱』は大正14年(1925年)8月滋賀県の警察部長水上七郎の主唱によって2年をかけ建設された。

この時代の時幣(普通選挙運動、小作争議、国民各層の分裂・対立)、これの給ウするには『世界人類の理想であって永久平和の根元となるべき我皇国精神の結晶である五箇条の誓文』を人々が仰ぎ見て自己鍛練出来るようなモニュメントの建設急務と考えた。

建設地は地理上日本の中心地、琵琶湖の多景島を選んだ。約70余万人から10万円の基金が集められた。皇室からも下賜金を賜った。(滋賀大学経済学部教授 筒井正夫先生、彦根ゆかりの近代化遺産、近代天皇制と彦根、より)

3.戦後60有余年たっての感想
始めてこの御柱を見て感動がありました。なぜここに誰が何の為にと思いつつ、彦根市文化財保護課へ聞き、文献をあさり、歴史の発見がありました。
現場教育ではここまで五箇条の誓文を教えていない、歴史の本質はこんなところにあったのかと思う所大です。 
そして明治維新から終戦まで、紀元節の設定、太陽暦の採用、皇紀2600年の祭典、八紘一宇から大東亜戦争への途と突き進みます。
しかし学問の自由を守った尊い人達の歴史を正しく伝える事は現代人の義務です。森戸事件(1920年)、河上事件(1925年)、滝川事件(1933年、45年復職)天皇機関説事件(1935年)、津田事件(1940年)、その他多数ありました。

最後の津田左右吉先生の『古事記』及び『日本書紀』の文献的研究から、神話は史実ではなく天皇家の統治を正当化するための政治的述作であると実証してその著作が発禁になりました。

津田先生の考え方は今も歴史学者に受け継がれています。戦後天皇と神話に関する反動はうねりとして何回か発生してきました。その一つが建国記念日の設定です。(1967年2月11日を第1回として今も継続されています。)
終戦後、大部分のこの類のモニュメントは占領軍によって除去されましたが、この誓いの御柱は一里離れた琵琶湖の沖あいにあったため、今もこの地にあります。しかしほとんどその存在さえ忘れられようとしています。

                  五箇条の誓文
1、広く会議を興し萬機公論に決すべし、
1、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
1、官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す
1、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
1、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
我が国未曾有の変革を為さんとし、朕身を以て衆に先んじ、天地神命に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立てんとす、衆亦此旨諏に基き協心努力せよ

由利公正、の案。福岡孝弟の修正。木戸孝允の最終案。
1、列候会議を興し萬機公論に決すべし
1、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
1、官武一途庶民に至るまで各々その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を欲す
1、旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふべし
1、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
       (最後に修正された箇所太字)

新たに加えた第4項は、明治政府が開国和親の外交方針を出したに関わらず、攘夷熱は依然として去らず、堺において土州藩士がフランス人を殺傷し、又京都において参内しようとするイギリス公使を襲撃する者が現れて、外交上の紛争を生じたので、攘夷の陋習を破るべきを意味するものである。感想:60年前にこれを深い意味理解せずによく覚えたことよ。

                                                (宮崎)


  

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