近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
  狩野永徳と織田信長・安土城

織田信長は、狩野永徳に安土城を描かした屏風をローマ法王に送ったと言われている。また、安土城の障壁画は、織田信長が狩野永徳一門に命じて描かしたとされている。

狩野永徳は織田信長や安土城と深くかかわっていた。はからずも一昨年(2007年10月16日〜11月18日)、京都国立博物館で特別展「狩野永徳」が開かれたので早速鑑賞した。数々の巨大な作品の迫力に圧倒されたことは言うまでもない。
少々遅くはなったが、織田信長・安土城との関わりを中心に追ってみた。

1.
『洛中洛外図』屏風
 まずその筆頭は、信長が上杉謙信に送ったとされている、国宝『洛中洛外図』屏風(米沢市上杉博物館蔵)である。

かねてから、この屏風は当時の文化を識ることができる貴重な資料である、ということは理解していた。
例えば、安土城の伝大手道の両側に連なる屋敷群の復元模型(安土城考古博物館)や案内パネル(安土城跡)にも参考にされており、安土駅近くの「城郭資料館」の陶板にも同じデザインで描かれている。さらに、安土城郭調査研究所(現調査事務所)の説明資料にも数多く使われている資料でもある。

 マスコミの前宣伝にも取り上げられたせいか、本展でも最も人気があり、大勢の人は立ち止まり鑑賞をしていた。
したがって、少し離れて概観することは無理な状態で、人の流れにまかせ、間近で眺めた。

本屏風には、建物が天に向かって伸びあがるように鋭角的に捉えられ、都の威容を強調しているなかで、約2,500人の人物が登場しており、貴賎僧俗、公武衆庶のあらゆる階層が書き込まれている。

人々の会話や息づかいまで聞こえるように、活き活きと描かれていて、洛中に入り込んだ感があった。当時の建物の配置や構造の例としてよく使われる細川邸の門前には、邸内に入った主人の帰りを待つ従者が路上に座り込んでいる。その一人がうつらうつらしている様子などは真に迫っていて興味は尽きない。

 作品解説には、公方邸(足利義輝の父、義晴の御所)に詣でる輿に乗る貴人の一行を、義輝と盟約関係にあった謙信ではないかという説が示されている。

本年(2009)の大河ドラマ「天地人」では、既にでき上がった屏風を前に、信長が絵師(永徳?)に対して、謙信が公方邸を訪れるところを加筆するよう命じた場面があった。謙信の上洛を促すために描かせたという設定のようであったが、事実はともかくとして、一つの屏風が、いくつものストーリー生みだすという点においても興味深い。

 米沢市という遠方にある作品が、特別展に出展され、間近で鑑賞できたことは幸運であり、これに類する機会は逃さずぜひ訪れたいものである。

2.
織田信長像
 今回は、大徳寺と総見院所蔵の絹本著色、織田信長像それぞれ一幅が展示された。
大徳寺所蔵のものが狩野永徳の手になるもので、総見院のものは伝狩野永徳とされている。

従来、「織田信長像」は愛知県豊田市、長興寺所蔵(重要文化財)のものが、いくつかある信長像の中で最も真に近いと推定され、教科書的にもよく使われている。
本像は、永徳の弟の元秀(宗秀)によるもので、織田信長の一周忌にあたる天正11年(1535)の6月に、家臣与語(余語)久三郎正勝が、報恩のために自らの菩提寺である長興寺に寄進したことが下部に記されている。

 これに対して、大徳寺所蔵の織田信長像は、画中に筆者を示す款印の類はないものの、狩野常信が本画像を写し描いた「織田信長像」(名古屋市総見寺所蔵)の署名に永徳画にならった旨(「追永法院徳図常信書之」)が記されていて、永徳筆の可能性が濃厚であるとされている。

このことから、先述の、長興寺所蔵の「織田信長像」も本画像に基づき描かれていることになる。したがって、大徳寺所蔵画像の作期としては、信長が本能寺で倒れた天正10年6月から宗秀が長興寺本を完成させた、翌年6月の間が想定されている。この間、大徳寺では秀吉主導による信長の葬儀が盛大に営まれた(天正10年10月)。

像容は、裃姿の信長が右手に扇子を持ち、上畳に坐る姿を描いている。
肩衣には永禄11年(1568)に信長が足利義昭を奉じて入京した際に使用を許可された桐紋と、織田家の家紋である木瓜紋二つが上下に配されている。

容貌は、面長で鼻が大きいのが特徴となっており、切れ長の鋭い目は理知的ながらも強固な意志を暗示する。眉間や目の周囲には、信長の神経質な一面をうかがわせる深い皺が刻まれている。

これは、ルイスフロイスが、永禄12年岐阜城で信長に謁見した時の印象を『フロイス 日本史』に記録として残している容貌とも一致する。この一幅を拝観したとき、信長の真の姿に近いものであると確信した。

もう一幅の、総見院所蔵の「織田信長像」は、永徳筆の伝承を伴うものである。その容像は衣冠束帯姿の信長が上畳に坐るという威儀を正したもので、容貌は先述の大徳寺本と酷似するが、表情が柔和で優しげである。宗秀が描いた長興寺本も同様の容貌である。

 これらの信長像を比較すると、最初に大徳寺所蔵の「織田信長像」が描かれ、それを基に長興寺本や、その後の多くの信長像が描かれていく過程がよくわかる。

安土城考古博物館の第二常設展示室、信長の世界には、ずらりと織田信長の肖像や木像が掲示されている。残念ながら大徳寺本は掲示されていないが、長興寺本以下多くの信長像が掲げられている。これらの信長像においても、原本が写されていく過程が読みとれるのではなかろうか。

3.
安土城の障壁画
 本展覧会図録の関連資料として、「狩野光信宛宗秀遺言状」(『古画備考』所収)が記載されている。

安土城築城にあたり信長は、天主をはじめ多くの建物の障壁画の制作を、狩野永徳一門に命じた。
「狩野光信宛宗秀遺言状」は永徳の弟宗秀が永徳の子光信当てた遺言状で、この中には、永徳が弟子たちを率いて安土に移住することになったが、その際、京都の家屋敷を宗秀に譲り渡す、と書かれている。

これは万が一、安土城の障壁画が信長の不評をかった場合、信長の性格から、永徳は生きて帰れないという覚悟があったことを示唆している。命がけで安土城の障壁画制作に挑んだのではなかろうか。

『信長公記』によると、安土城の天守が完成した後の天正9年9月8日条に、永徳とその子右京助は棟梁の岡部又右衛門、諸職人頭などと共に、いくばくかの小袖を信長から拝領している。名誉なことだったのであろう。

4.
おわりに
 狩野永徳展を鑑賞して、改めて永徳は安土城と多くの面で関わっていたことを実感した。いま、安土城の天主跡に立ち、改めて偉大な画家の偉業に思いをはせるとともに、そのスケールの大きさは、あるいは、海を渡った屏風絵にどのような安土城が描かれていたのかなどと考え、その内容を今回の特別展に展示された作品と重ね合わせ想像している次第である。
その豪華絢爛たる安土城天主は、本能寺で散った信長の「天下布武」の夢とともに、灰燼に帰してしまったのである。

参考文献 『特別展覧会 狩野永徳 図録』、『信長公記』、『フロイス 日本史』、『安土城天主 信長の館』

                                                (日吉)


  

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