近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 源 内 峠

今は昔、7世紀頃のことである。天智天皇が大津に都を遷したのが667年であるから、まあ、その頃と思って貰えばよい。瀬田の近江国庁から東南に、田上・信楽を経て伊勢へと続く一本の道があった。その道が瀬田丘陵を越えるところ、それが源内峠である。

 時は下って1970(昭和45)年頃、地元の小学生の男の子が、源内峠で不思議な石を見つけた。同様な石が、今も南大萱資料室に保存されている。

 「これなんです」と、Fさんは、商店の紙袋に入った石を棚から下ろしてくれた。黒と茶色の入り混じった不恰好な石で、ブツブツとした表面にはいくつか深い穴がある。持ち上げると、えらく重い。

 男の子は、それを学校へ持っていった。先生がその時、「なんだ、汚い石じゃないか、ほかしとけ」と言ったら万事は終わりだったのだが、その先生は専門家に相談した。

 「これは鉄滓です」と、その専門家は言った。鉄を作るときに出る不純物が固まったものだというのである。ということは、いつの頃か源内峠で製鉄が行なわれていたことになる。

 滋賀県教育委員会では、1977(昭和52)年から4回に分けて発掘調査を行なった。その結果、4基の製鉄炉と鉄滓約15tonが発見された。7世紀後半のものと考えられている。2006(平成18)年には、近くの山の神遺跡・野路小野山製鉄遺跡と併せて「瀬田丘陵生産遺跡群」として、国の史跡に指定された。現在遺跡は埋め戻されているが、その上に製鉄炉が一基復元されている。

 この復元は地元の人達の努力によるものであった。2006(平成18)年3月10日に「源内峠遺跡復元委員会」を結成、県教育委員会の指導を受けながら、盛土から地下構造の造成、炉床、炉壁の構築まで自分たちの手で行なった。そして翌2007(平成19)年10月13日に完成式典をあげるに至った。

     「いにしえの技術の粋を集めたる溶炉の遺跡今日目覚めけり」
                    参加者が詠んだ感動の一首である。

 この委員会は今も活動している。2008年年10月11日には大津市一里山公園と隣接の緑のふれあいセンターで「親子古代鉄づくり体験式典」が催された。
 「子どもがいないのですけどいいですか」と電話すると、「いいですよ、どうぞ」と返事がかえってきた。

 当日は快晴だった。瀬田駅からタクシーで駆けつけると、高さ2m程の製鉄炉はピンクに輝いて、黒い煙突から薄く煙がのぼっていた。私は時30分から行なわれるものと思っていたのだが、それは式典の開始で、火入れは8時30分に行われたという.

 緑のセンターに廻ってみると、小学校5年ぐらいの丸々とした男の子が、ビニールを敷いた上に金床を置いて、鉄鉱石を一生懸命に砕いていた。炉に入れる鉄鉱石は細かく砕いて砂鉄状にするのだ。たたら製鉄である。

 式典が終わると、砂鉄状にした鉄鉱石と松炭を交互に炉に入れる作業が始まった。子ども達が主役である。係りの人に付き添われて炉に近づき、煙突の上から炉の中に落とす。びわ湖放送が取材に来ていて、その様子をテレビカメラに収めていた。

 午後2時過ぎ、「のろ口」が開かれるとオレンジ色に輝く「のろ」がだらりと出てきた。これは不純物である。ついで煙突から順番に炉が壊されていく。最後に残ったヒ(けら)は水を張った罐(かん)に投げ込まれた。
ものすごい泡が吹き上がる。午後2時25分であった。

 冷めたところでヒの目方が計られた。4.2Kgだった。精錬して「玉鋼(たまはがね)」にすると、この1割か2割にまで減少するという。この日使われた砂鉄状の鉄鉱石は29.5Kg、松炭は76.5Kgと発表された。
                                                (橋本)


  

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