近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 桐生の歴史を訪ねる
                                 ≪山下克己著「滄海の一粟」より転載≫

 錦秋の十一月十一日、今回初めての試みとして、近江歴史回廊倶楽部(以下倶楽部と云う)の事業部会と大津南支部共催による見学会を上田上桐生の里でおこなった。

下り坂の天候にもかかわらず四十二名が参加した。集合場所の上桐生バス停には交通の便が悪いため、半数以上の方が自家用車で来て、あちこちに分散駐車し、参加者には思わぬ迷惑を掛けた。
 会長、事業部会長の挨拶に始まり、私の案内で草津川上流のハイキングコースを歩き始める。

私が倶楽部と関わりをもったのは平成十二年頃だった。その二年前、県は豊かな歴史文化を、近江戦国の道、近江東海道などテーマに沿った十の探訪ルートでつないだ「近江歴史回廊構想」を作成した。

この活動を推進するため「近江歴史回廊大学」を開設し、滋賀の歴史を学ぶため受講者に現地研修を交えた一年間三十回の講座を開いた。私はわが意を得たりと募集に応じたが希望者が四倍もあり抽選に漏れた。翌年も応募したがまた落ちた。
そんな時、回廊大学の修了者が自主的な団体として倶楽部を結成し、学習会や現地研修などしていることを聞いた。大学が駄目ならここでもと思い入会した。(大学へは翌十二年、「近江中山道クラス」の受講が叶った)

平成十四年、倶楽部に七支部が設けられ私は支部長に任ぜられた。それ以来支部行事の企画立案、資料の作成から実施まで何度か、ほとんど一人で手掛けてきた。

今回は上田上でも少し離れた草津川上流の狛坂山麓にひっそり佇み、独自の文化を形成した桐生へ行くことを立案すると、会長の提案で事業部会と共催になった。いつの間にか支部長会会長に祭り上げられていた私は立場上、老骨に鞭打ち率先してやることになった。

工房見学や講師のお願い、二回の現地下見などをして、やっとこの日に漕ぎつけた。しかし、頼んでいた大津観光ボランティアガイドからは「桐生なんて案内したことない」とつれなく断られ、結局私が案内する羽目になってしまったのである。

「若人の広場」(キャンプ場)を過ぎてすぐ右道端に「三田六池創設者惣兵衛之碑」が目に入る。
 桐生は昔、干天が続くと農業用水が枯渇した。用水確保のため先覚者惣兵衛が享保年間(一七一六〜三六)、面積三町五反余の溜池を築いて、五十五町歩の田畑を潤すことに成功した。今に残る三田六池である。
 昭和十九年池のほとりに、惣兵衛を顕彰する碑が建立された。それが最近道路拡張のためこの地に移設されたのであった。

 その先すぐ川を渡り、上流林間に忽然と姿を現したのがよく知られた「オランダ堰堤」である。明治以前、背後の山は禿げ山で、たびたび洪水が起こり下流に被害を及ぼした。

 明治二十二年(一八八九)「淀川水源砂防法」による治山治水事業の一環として、オランダ人ヨハネス・デレーケの指導により造られたのがこの堰堤。表面は花崗岩の割石積による構造で、堤頂に上がりその形態を眺める。私は日本各地で当時活躍したデレーケと、構造の合理性について特に詳しく説明した。

 色づき始めた林の中を十分ばかり歩くと、左奥の大岩に三尊仏が逆さに刻まれているのが見えた。「逆さ観音」と言われるものだ。
 鎌倉時代初期に作られ、金勝寺への横参道の道標となった。逆さになっているのはオランダ堰堤築造時に石材が不足して大岩の一端を切り取ったため、後にバランスを失ってずり落ち、逆さになったのであった。

 午後は草津川の対岸に渡り、静かに水を湛えた三田六池を見たあと、四代続く成子紙工房に向かう。車と徒歩で集落のなかを進む行列に、あちこちから犬の鳴き声が聞こえ、平生は静かな里に時ならぬ喧噪をもたらした。

 桐生は良質な清水が豊富で、山野に原料の雁皮が多く自生し、消費地の京都に近いことから、最盛期には十軒ほどの雁皮紙工房があったが、今は一軒しか受け継がれていない。西陣織に使われる金銀張りの地紙は全国一の生産量であったとのこと。

 工房内では紙漉の実演を見ながら、手間暇かけて作られる雁皮紙の特徴も詳しく聞いた。滑らかな紙肌、光沢、強靱さに魅せられ、早速何人かは一般に販売されない薄様の紙を手に入れた。

 昭和十七年、元京大名誉教授の山本一清博士が上田上の奥に天文台を造り、世人の注目を浴びた。その建物は旧家の邸内一郭にあり、今は観測器具も取り払われ外観のみが面影を残していた。
正休寺では住職と講師にわざわざ門前まで出迎えられ恐縮する。本堂に上がり住職より寺の由来および建築物、什器の話を聞く。梵鐘は京都北野天満宮の神宮寺から明治二年(一八六九)に移されたものだった。

 最後に瀬田史跡会名誉会長山本文良氏の講話「桐生の昔と今」を聴いた。桐生の始まりから説き起こし、磨崖仏、三田六池創設、地場産業の紙漉、箔押から山林の荒廃による水害、砂防工事、果ては昭和四十年代の土地開発にまつわる問題まで、一時間余にわたって事細かく話された。そして「田上、桐生の歴史は水との闘いであった」と締めくくられたのが印象的だった。
 解散を待って、ぽつりと雨滴が落ちてきたのも皆様の精進のお陰であった。

                                           (二〇〇五年一二月)                                  




  

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