近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 信長が若し天寿を全うしていたら


去る3月8日、東近江支部例会として「安土城下町を歩く」の企画に参加しました。
近くに住んでいながら余り良く知らなかった、歴史の町「安土」を地元の会員さんの説明
ご案内で興味深く散策、楽しい且つ有意義な一日でした。

 この一日の感想を少し述べさせて戴きます。
 歴史には、「若し」と言うことは禁句だそうですが、「若し、信長が天正10年に本能寺
で他界しないで、天寿を全うしていたなら」安土には、幕府が開かれ日本の首都となり、
近江盆地は京都盆地と併せて、現在の東京圈の様相になっていたのでは無いか。


 安土城天主の推定復元模型では、一階から4階迄は吹き抜けになって最上部二層は、爛豪華な極彩色の天主構造を備えたもので、中世や近世には全く見られない安土城独特
の姿である。

私は、このイメージをイタリーのバチカン宮殿にあるサン・ピエトロ寺院の高さ132メートルの巨大なド--ムと重ね合わせて、信長のその意図したものが分かるような気がします。

 浄土宗の浄厳院の墓地には、仏教の宗派を問わない多くの墓石に混じってキリスト教の
墓も同居しているという。

 安上城下町の中には、大日の地名の場所に(デウス)に通ずる「セミナリヨ」跡の推定
遺跡もあり、信長が構築しょうとした安土城下町、いや日本の天下統一には、キリストを
通じてヨーロッパ文化の取り入れを、考えていたようにも思う。

 若し、信長が天寿を全うしていたなら、明治維新の文明開化は約300年前に始まってい
てその後の日本の姿は、どうなっていただろうか。

 逆に大航海時代以降のヨーロッパ列強国による植民地拡大は、江戸幕府の鎖国によって
その難を逃れ、大和民族と仏教文化とが上手く融和を続けて、日本の姿が守られて来たと
も考えれば、本能寺に於いて謀反の相手が明智光秀と知って、「是非に及ばず」の辞世を
残して逝った信長の挫折の人生は、日本にとって果たして「吉」だったのか「凶]だった
のか・・・・・

 また、安王城本丸跡には、慶長期の京都御所の清涼殿と、うり二つの建物の礎石が検出
され、信長は天皇の行幸を意図していたとの考えも出来るようです。

一説には、この時の状況の中で宮中では、信長の行動にかなりの憂慮もあり、本能寺の変は光秀の単なる個人的な意趣遺恨では無く、光秀と関係の深かった公家衆の黒幕的存在説も在るとか?

私の夢想は尽きません。
 狩野永徳に描かせてローマ法王に贈ったという「安土城之図」の屏風絵探しに執念を燃
やし続けて居られる安土町は、「7年間はバチカン宮殿に飾られていた」と言う所迄確か
められた情報が入ったようで引き続き探索継続されている。

是非のご成功を析るばかり。安土城下町を歩いて帰路についた後も、大正のロマンに浸り続けた私の感想です。
                                             (2007.3 川村)






  

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