近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 西南戦争の跡を訪ねて

   

♪雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂 
 右手に血刀左手に手綱 馬上ゆたかな美少年♪

今も広く愛唱される民謡の現地、田原坂を訪れたのは昨年12月のことであった。

慶応年間から家に伝わる60余枚の古文書をもとに「我が家の歴史探訪」と名付けた小誌を編著する中で明治初年の先祖の一人、片山百合吉官軍曹長の戦死を告げる古文書があった。

それには「明治10年3月7日 田原坂攻撃に際し敵塁の抜けざるを慨嘆し自ら奮進し兵卒を激励、まさに敵塁に達せんとする際、敵弾脇腹を貫き戦死致し候なり」と大阪鎮台大隊長陸軍少佐鈴木良光の署名捺印があった。

そこで、小誌にこの先祖の足跡も加筆しようと決心した私は、早速、田原坂史跡のある熊本県植木町の町役場に西南戦争戦没者慰霊碑などの写真送付をお願いした。嬉しいことには突然の頼みにもかかわらず、町の観光課は早速デジカメを持って慰霊塔へ出かけ片山百合吉の名前を彫った顕彰碑の写真をメールで送って来た。

そして現地を案内するからご来遊をとの言葉が添えられてあった。これが励みになって数ヶ月の後、丁度私の73歳の誕生日に小誌を脱稿した。そしてインクの香りの新しい一冊を携えて遠路田原坂行きとなったのである。

冬とはいえ温暖な熊本県植木町「田原坂」駅に下りたち先ずは植木町役場へ直行、観光課課長らは128年後の子孫として私を暖かく迎えてくれ、官軍墓地の979の墓石から片山百合吉の墓石を探し出し(官軍墓地は他にも3カ所ある)特に準備してくれたボランティアガイド氏の車で案内してくれた。

墓参が出来るとは予期してなかった私は最高のイベントだと大喜び。木漏れ日の射す官軍墓地でご先祖様の墓に供花した。墓石はかなり風化していたが確かに片山百合吉曹長と読みとれた。思いがけない子孫の墓参に先祖はさぞかし驚いたことであろう。

その後、ガイド氏の案内で十数カ所の古跡をまわったが田原坂の古戦場は今も昔の面影を残し、昼なお暗き竹藪に囲まれた狭く長い道路であった。ここで先祖が討ち死にしたのかと思うと一入感慨無量であった。

さて、史料によると西南戦争は我が国内での最後で最大の戦いであった。明治維新後、薩摩藩も廃藩置県で多くの士族達は地位と職を失った。その不満が募り反明治新政府への動きが高まり、西郷隆盛を総大将とする1万2千の薩軍が明治10年2月、東京を目指して鹿児島を出兵した。

薩軍の進行を阻止せんと谷干城少佐率いる官軍は熊本城に籠ったが悪戦苦闘をしていた。乃木希典少佐(後に大将)の官軍本隊は熊本城救援と薩軍討伐に向かった。熊本城へ通じる唯一のルートである要害の地、田原坂で明治10年3月4日から死闘17日間、一日平均32万発もの銃弾と千個の砲弾を撃ち合った、中には「かち合い弾」と言って銃弾同士が空中で衝突し溶けて合体したものも少なくない。

田原坂だけでも官軍戦死者1987人に上った。17日間の戦闘は連日の大雨で行動は非常に難渋した。歌の文句に「雨は降る降るじんばは濡れる」とあるが、じんばとは人馬ではなく陣地の足場すなわち陣場が濡れることだと土地の人は語った。それほどの泥濘の中で血と泥にまみれて死闘を続けた兵士達の惨状が偲ばれる。

官軍は大砲や荷馬車を運んでいるので田畑では動きが出来ず田原坂の他に熊本城への道はなかった。田原坂は熊本城までの約16qの掘り抜き道で蛇行しており、左右の高い山林から挟撃されるばかりか正面からも狙撃されるという難所であった。

攻めるには全く不利な地形で最も多くの戦死者を出したが、官軍は時の勢いと武装が薩軍に優っていたため薩軍は敗走をつづけ、同年9月鹿児島に帰った西郷隆盛が自決したことで西南戦争の幕は閉じられた。(西南戦争全体の戦死者は官軍6923人薩軍7186人)

なお、歌の文句に戻るが「馬上ゆたかな美少年」とは薩軍の藩士廿歳の三宅伝八郎のことで田原坂の陥落を急報するため熊本にある薩軍本部を目指し、馬上血刀を振い官軍の包囲陣を突破した若武者であるとの説が有力。

予期以上の成果を挙げた私は即日、田原坂を離れがたく近くの秘湯植木温泉で岩風呂につかった後、先祖の霊を偲んで芋焼酎と名物の馬刺を賞味しつつ宿の情緒を噛みしめるのだった。              
                                              (片山満正) 
                                        





  

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