歴史散策・随想
歴史発見「鈎の陣所」
栗東市を通る国道1号線、草津方面から上納の信号を右折して一ッ目の信号を左に入ると桜木立の中に「足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑を最近発見しました。

石碑には歴史の何か秘められ、建立されているのかと思い先輩諸師の文献、関連資料を、参考に石碑の歴史を纏めました。史実と異なる記述がありましたらお許し下さい。
陣所の要約
今から、519年前の長享元年(1487)足利時代、九代将軍義尚(よしひさ)が、幕府の権威、統治体制の強化に情熱を燃やし、栗東の鈎(安養寺、上鈎、下鈎、の三大字)に一万余の軍勢を率いて、18ケ月、布陣した歴史の一齣です。
義尚の誕生
義尚は寛正6年(1465)11月、銀閣寺を造営された8代将軍義政と日野富子の嫡男(結婚した正室の男児)として誕生しました。結婚は義政20才、富子16才、の時ですから義尚誕生は結婚10年目のことです。
一粒種の嫡男誕生はおめでたい事ですが、後の大きな内乱の火種になりました。
後継争い
将軍義政は義尚誕生の直前に、富子に相談することなく、弟の義尋に政治がいやになり隠居したいから後継将軍になるよう懇願し、寛正5年(1464)弟は義視と名乗り後継者に指名されましたが、皮肉なことにその数ケ月後に富子が嫡男義尚を出産し、後継争いになります。
富子は我が子義尚を将軍にしたいと、幕府の実力者、山名宗全に力を貸してと哀訴します。
一方の無視は、後継指名は決まった話と、管領(将軍補佐役の家柄)細川勝元に頼る、同じ頃管領家の相続争いも絡み山名方、細川方に分かれた全国の大名軍が京都に集結、応仁元年(1467)京都が焦土になる、「応仁の乱」へと発展し、内乱は11年続きました。
九代将軍
八代将軍義政は内乱中の応仁2年(1468)弟義視の後継官位を削り、翌年義尚を後継者とする旨、諸将に申し渡し、文明5年(1473)12月、京都室町邸で九歳の義尚が九代将軍に就任しました。後継争いに勝ち、義尚の将軍就任を母富子が一番喜びました。
将軍義尚の近江出陣
近江諸国は、愛知川以南を六角高頼が守護として治めていました。(愛知川以北は京極持清)六角は寺院、公家、将軍近親の領地を横領、幕府は横領地の返還を勧告しますが無視されます。
幕府は事態を放置できず長享元年(1487)六角討伐を決行します。総大将、義尚は一万余の軍勢を率い近江坂本に着陣、六角の本拠、安土の観音寺城を落すも、六角は甲賀谷に退却、義尚は坂本から栗東の東方山安養寺に陣を進め、本格的に六角討伐を展開しますが、六角の陣に内通する武将がいて討伐は決着しません。
鈎の御所
討伐の長期化に備え、義尚は政庁となる真宝館を上鈎の地に建造、安養寺から真宝館(鈎の御所)に移り政務を執ります。
真宝館は水堀り、築地、本丸、ニノ丸、三ノ丸からなる庁舎で公家衆、武将、僧侶も押し寄せ市も建ち、鈎の田園風景は小都市に一変し、歴史上栗東が最も輝いた時といわれています。
将軍義尚の逝去
長享2年(1488)1月、六角は甲賀谷に潜んでいましたが、義尚は六角の近江守護職を解任し、新たな守護任命、領地配分を発表しますが、近親を優遇するもので、大軍を率い討伐に参戦し、恩賞のない武将の猛反発を受け、義尚は守護、領地配分を撤回します。
将軍の権威失墜、政治信念も傷付き落胆し、政務、軍務をさぼるようになり、能、狂言、歌会、公家衆の姫君、侍女を交えた酒宴に熱中する日々で体調を崩し、延徳元年(1499)3月26日、母富子に看取られ、真宝館で永眠します。
行年25才、将軍在位16年、華の命は短く「鈎の御所」も日暮れてゆきました。
(谷川)
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