近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想


 
 悲運の獄中こより

   
JR膳所駅に程近い国道一号線沿いの湖城が丘に「膳城烈士墳墓所」があり、烈士の墓が多数の墓石に囲まれて眠っています。

 幕末騒然としたころ、膳所藩も尊攘派(正義党)と保守党(俗論派)が激しく対立していました。1865(慶応元)年5月将軍家茂は上洛の途上、膳所城に一泊することになりました。藩は中老保田正経(まさつね)等三人を普請奉行に任じ、急遽御殿の改修に取りかかり、将軍到着の数日前にやっと完成しました。

 将軍の泊まる前々日になって「普請奉行保田をはじめ11人の尊攘派は、先に脱藩した川瀬太宰(だざい)たちと気脈を通じ、将軍に対し不穏の企てあり‥‥」と噂するものがあって、突如日程を変更して、将軍は大津本陣に宿泊し京都へ向かわれた。

将軍暗殺とか上洛妨害とかの不穏な空気は事実あったかどうか、当時でも判然としておりません。 ただ将軍宿泊予定の9日前に、膳所藩士上坂(こうさか)三郎左衛門が、川瀬の逮捕を京都守護職に密告しています。将軍宿泊の件が持ち上がったことから、藩内の不穏分子を一掃し、目の上の瘤である尊攘派を処分する絶好の機会として、川瀬が逮捕された5月14日から膳所城下で一斉に十一烈士らの検挙が行なわれました。

 どれほどの吟味があったか疑わしいが、5ヶ月後の10月21日、死罪という厳しい判決が言い渡されました。すなわち即日、百石以上の保田正経、阿閉信足(あとじのぶたる)ら4名は安昌寺(膳所一丁目)で切腹。儒者高橋正功(まさかつ)、同森祐信(すけのぶ)らの7名は斬首のうえ岡山墓地に葬られました。また遺族は2日以内に領内より立ち退きを命ぜられました。

 当時膳所藩の武士用牢屋敷は木下町の相模川堤東にありました。余談になりますが、この跡は明治31年(1898)から3年間旧制膳所中学草創期の仮校舎になっています。

 投獄された烈士には筆や紙は与えられなくて、当初は独房での深い瞑想でした。そのうち藩校遵義堂の師範であり、尊攘派の理論的指導者であった高橋正功が、わずかに与えられたちり紙でこよりを作って飯粒で固め、これをちり紙に貼り付け文字にして詩歌を詠み、悲運の身を慰めていました。

 牢番の村田次郎一はこれを密に各独房に回したので、無聊(ぶりょう)をかこっていた烈士たちもこよりで詩歌や俳句を作るようになりました。

田河武整(たけのぶ)はわが子への遺訓を残しています。また獄中着を噛んで紺色を溶かし、それでこよりを着色したことや、獄中着の糸を抜いて文字や絵を描くこともしました。ついには村田の仲介で高橋幸佑の松の絵に高橋正功が漢詩を付した合作まで作るようになりました。

 慨世憂国の志に風流の情趣を具えた悲憤の獄中生活でした。これら遺品は40数点にもなり、現在は瓦が浜の本多神社資料館や大津市歴史博物館に保存されています。

 (山下)


  

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