近江歴史回廊倶楽部

歴史散策・随想

知られざる草津の墓碑
(備中浅尾蒔田玄蕃頭の墓)


草津市草津1丁目にある円融寺は日蓮宗にして永禄2年(1559)行蜜院日元の開基とする。

本堂の裏の墓地に高さ50cm、1.5m角型に両横と後に石の囲いを巡らして基壇の石は2段に重ね、高さ2m位の墓碑がある。花建、石の焼香台には八曜紋が刻まれてある。八曜紋は九曜紋の変形で旗本蒔田氏が家紋とする。墓石には次の字が刻まれてある。

俗名蒔田玄蕃頭藤原定政
妙法蓮経隆光院殿宗真日照
寛永17年庚辰12月29日

玄蕃頭は寛永17年12月当地通行の節病没したので此処の寺に葬られたのである。

家系図には定正とあるが没年月日からみれば本人に間違いはない。
蒔田氏の先祖は『藤原南家』を称し備中国賀陽郡浅尾周辺を領有し1萬石。豊臣家臣の蒔田広定が、関ヶ原合戦で西軍にくみしたため除封されたが、のちに許されて旗本となり1萬石を与えられた。
広定の子定正は弟長広に3千石を分与し、次の定行から7千7百石を領有した。新人物往来社の大名家系図によれば、蒔田氏―伊勢根雲出―慶長5年除封―同年備中浅尾再興―寛永13年領地分割(旗本となる)―文久3年諸侯に列す。

秋田書店の歴史と旅の増刊 姓氏家系総覧によれば蒔田氏陸奥『称藤原南家』家譜に『為憲五世孫維兼の裔蒔田民部小輔維昌の後胤で、維昌が陸奥の国蒔田城にあったので此の氏を称した』と云う。

広光―広定―定正―13代広孝で明治維新となり子爵になる。定正は領地分割の為に旗本となる。子孫は文久3年(1863)広孝のときに高直しで1萬石となって再び立藩され諸侯に列す。

家紋八曜、下藤 玄蕃頭定正の墓の両脇にいずれの日迄か殉死した家臣の墓があったといわれていたが今は無く無縁仏となり一隅に積まれてあるのではと住職の談話を聞く。

定正は天正19年(1591)に生まれ寛永17年(1640)に死去し従5位下玄蕃頭、夫人戸田尊次女。近世に入ると戦乱が絶えたためもあって、病死した主君のために追腹を切ることが一種の風習として流行し、これが殉死とよばれ称賛されるようになった。

 有能な人材が失われるなどの弊害があったので大名の中にはこれを禁止する者が多くなり、幕府は寛文3年(1663)4代将軍家綱が『武家諸法度』を公布するに際して口達として殉死を禁止する旨を命じた。

定正は1640年に病死しているが幕府は1663年に口達で禁止をなし綱吉の代には『武家諸法度』の本文に殉死禁の条項が加えられている。殉死の風習も末期となり7千石の旗本に追腹は研究課題である。
                                 
 (会員  堀池)



       

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