近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


 「琵琶湖周航の歌」再考
ー小口太郎のルーツを追ってー

  

はじめに
「われは湖の子」で始まる「琵琶湖周航の歌」は、滋賀県民にとって我が歌の様に親しまれ歌われる。琵琶湖には行ったことがなくても、歌は知られ、全国何処でも愛唱されるようになった。
豊かな感性と曲想に恵まれた歌詞と歌曲が偶然にコラボレートして完成された歌である。歌の誕生や作詞者小口太郎については旧制第三高等学校(現・京都大学)OBを中心に研究されてきたが、未だ謎の部分もある。
私は、同郷で一世代昔の先輩小口太郎の活躍とロマンに興味をもっている。何気なく口ずさんでいる歌の不思議な巡り合わせに想いを馳せながらそのルーツを追ってみた。

1.琵琶湖周航の歌とのかかわり
「琵琶湖周航の歌」の作詞者 小口太郎は、明治30年(1897)8月、信州諏訪郡湊村花岡(現・岡谷市湊)で生まれた。
諏訪湖の西岸、湖から天竜川への出口にある釜口水門の公園の一角に小口太郎の銅像(新制作協会・田畑一作氏作)が建っている。

この立像は旧制高校の学生姿で、左手に芸術と科学を象徴する2冊の書物と小辞典を抱え、凛然として諏訪湖と八ヶ岳を見つめている。これを見ると何故か過ぎ去った青春の追憶を重ね合わせて、敬愛と親しみの情を覚える。

近くには顕彰碑と江崎玲於奈氏揮毫の歌詞碑、ミュージクボックスが置かれている。ボタンを選べば旧制第三高等学校同窓生の斉唱、管弦楽(諏訪交響楽団)、合唱(岡谷市音楽協会)の3形式で「琵琶湖周航の歌」を静かに聴くことができる。

ここは緑の木々に囲まれ、ベンチに座って歌を聴くのもよし、湖面に向かって歌うのもよし、暫し癒しの時間を持つことのできる格好の場でもある。この像は小口太郎生誕90周年を記念して地元市民や地元小学校、小口太郎の母校である旧制諏訪中学校(現・諏訪清陵高校)、旧制第三高等学校などの有志が発案して全国から募金を募り、建立したものである。今から18年前、昭和63年(1988)10月のことである。

小口太郎と同郷の諏訪で育った私が、この「琵琶湖周航の歌」を初めて知ったのは高校時代の時であった。
秋になると諏訪湖で全校クラス対抗の端艇大会が行われた。夏は放課後その準備のために夕方遅くまで厳しい練習に明け暮れた。当時はクルーが9人のエイトと呼ばれるスウィープ艇で夕暮れの空に響くコックスのかけ声、周囲の山々が溶け込む水面を滑る艇と漕ぎ手の一体感は何ともいえぬ感動を覚えたものである。
疲れたオールを漕ぐ手を休めて誰となく口ずさんだ歌が「琵琶湖周航の歌」であった。哀調のあるメロディーが疲れきった体に快く吸い込むような感じで活力が湧いた。

端艇大会は諏訪中学創始時代の明治34年(1901)から現在まで長い歴史をもっている。質実剛健と自治精神を重んじる校風から端艇の所有・管理や大会まで全て学友会が取り仕切って行うという伝統を持っていた。明治末期からこのような校内レガッタを続けている高校は全国でも珍しいと思う。

校歌に「夏は湖水の夕波に 岸の青葉をうつしつつ オール執る手も勇ましく 漕(こ)ぐや天龍富士守屋 げに海国の日の本の 男(お)の子の意気ぞたのもしき」(清陵第1校歌3番)とあるように、高校では誰もが湖(うみ)に親しみ、ボートに情熱を燃やす青春のひとときを過ごした。


多分 小口太郎たちも 時代の差こそあれ諏訪中学の5年間を同じ様な環境で勉強し、諏訪湖で端艇に励み、青春の日々を送った「湖の子」であったに違いない。

余談となるが、最近上映された「男たちの大和」に出てくる戦艦大和の最後の艦長 有賀幸作(中将)は、小口太郎の友人で諏訪中学の同級生であった。彼もまた海に魅せられ、まさに「海国日本の男(お)の子の意気」で海軍兵学校に進んだ。昭和20年(1945)4月沖縄水上特攻の使命を担って3千有余人の若い乗組員とともに東シナ海で玉砕し、日本新生の先駆けとなった。

さて、私は高校を終え、学生時代を東京で過ごしてから、仕事の縁で大津の住人になり45年が過ぎた。何とか近江人の仲間入りをさせて貰えたと思うようになっている。
今から7年前になるが、諏訪に住む友人から1枚のハガキが届いた。「岡谷と新潟県新津の郷土史家が周航歌の作詞・作曲2人のゆかりの地を見学し情報交換を行った」という新聞記事をみた。琵琶湖周航の歌が先輩の小口太郎の作詞作曲であると紹介している高校のホームページは間違っていないか」というものであった。

私も長い間、作詞作曲者は小口太郎だと思ってきたし、会合や飲み会の後で周航歌を歌ってお開きにすることが度々あったが、そんなに気にもしなかった。しかし、このハガキが機縁となって、「琵琶湖周航の歌」に興味を抱き、この真偽を追うことになる。  

2.「琵琶湖周航の歌」誕生のいきさつ
前号で「琵琶湖周航の歌」(以下「周航歌」と略称する)と私との関りについて述べた。ここでは周航歌がどのようにして誕生し、美しいメロディーを誰が作ったのか、今では、ほぼ常識になったと思われる周航歌誕生のいきさつを要約して紹介する。

歌の誕生
小口太郎は旧諏訪中学を終え、又従兄弟の三高生、浜孝平の勧めで大正5年(1916)年9月、三高二部(理工系)に進学した。入学と同時に漕艇のできる水上部(現京大ボート部)に入った。漕艇の校内誌「神陵史」によれば、水上部は歴史が古く、明治25年(1892)3月に瀬田川で第1回の競艇会を行い、翌年の4月には初めての琵琶湖周航に出ている。

明治35年(1902)に大津市の三保が崎に新艇庫を竣工してから、ここが漕艇練習や琵琶湖周航の基地になった。小口は寮生活を続けながら二部の代表クルーとしての練習や級友との漕艇行で琵琶湖に親しんだ。故郷の諏訪湖を偲ばせる琵琶湖の風光が彼を捕らえて放さなかったと思われる。当時はエイト艇を競漕用に改良した「フィックス艇」の7人乗りで、小口が漕手として一番難しい「整調」のポジションを担っていた。

小口を中心とする二部のクルーは、学期末に2回の琵琶湖周航を行っている。初回は大正6年(1917)に行われた。その1日目の6月27日は雄松(近江舞子)に泊まり、2日目は今津の湖岸の宿で疲れをとった。

その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の皆に披露し、当時校内で流行っていた「ひつじぐさ」のメロディーにのせるとよく合ったので、皆喜んで合唱したという。これが周航歌の誕生となった。この時、小口が雄松の風景をスケッチして寮に居残っていた級友宛に出した絵ハガキが残っている。

「昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松迄来てしまった。雄松は淋しい所で、松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。羊草の生へた池の中へボートをつないで夜おそくまで砂原にねころんで月をながめ、美人を天の一方に望んだ。今朝は網引をやって面白かった。今夜はこの今津に宿る。今津で小口。消印6・6・28、后9−10」

三日目は、今津から竹生島、長浜を経て彦根に泊まり、翌日 長命寺経由で大津に帰港した。
明治26年、最初の周航では、予想される周航の困難さや湖岸各地の人情、史蹟名勝などを訪ねるという意気込みがあったが、このハガキのように徐々に漕艇を楽しむような湖上ハイキングに変わってきたようだ。

周航前に雄松遠漕を何回か経験しているので、2番までの歌詞は今津で披露する前にできていたという。その後小口の主導で推敲を重ね、翌年の周航後には6番までの全歌詞が完成した。そして更に幾度か修正されて三高の水上部歌から寮歌になり、街に広がって愛唱されるようになった。

大津市観音寺の琵琶湖疎水取水口に突き出た「三保が崎」の南面に古ぼけた歴史の重みを感ずる艇庫がある。艇庫の妻には大きな白字で「三高&神陵」と記されている。ここが前述の由緒ある漕艇の基地だ(今は京大ヨット部が使用)。


隣接して周航創始80年を記念して昭和48年(1973)に三高同窓生が建設した「われは湖の子」記念碑と歌碑があり、辺りは京都市が管理する緑地公園になっている。記念碑の碑陰には、周航の奥義をうまく表現した建碑の由来が記されている。



「・・(前略)・・明治25年水上運動部を創設して、琵琶湖に漕艇を開き、翌26年4月有志21名初めて周航の業をなす。尓来80年、競漕は年々隆盛に赴き、周航は琵琶湖漕艇の神髄となり、湖上に艇を操るもの皆この岬より出でてこの岬に還える。或る時は力漕よく漕技を練り、或る時は湖上風物に詩情を養い、沿岸の史跡を訪ね人情を探り、艇を友にする者友情流露して心友堅く相結ぶ。
・・(中略)・・小口太郎君等琵琶湖周航の歌を創るや、学生好んでこれを唱し、遂に一世を風靡して今日に至る。蓋し、自然と人間との至極の調和この歌に表れ、周航の感懐この歌に尽くと言うべし。・・(後略)・・。」


さて、ここであらためて周航歌の歌詞を読み返してみよう。

1 われは湖の子 さすらいの      2 松は緑に 砂白き
  旅にしあれば しみじみと        雄松が里の 乙女子は
  のぼる狭霧や さざなみの       赤い椿の 森蔭に
  志賀の都よ いざさらば         はかない恋に 泣くとかや

3 浪のまにまに 漂えば         4 瑠璃の花園 珊瑚の宮
  赤い泊火 なつかしみ          古い伝えの 竹生島
  行方定めぬ 浪枕             仏の御手に いだかれて
  今日は今津か 長浜か         ねむれ乙女子 やすらけく

5 矢の根は 深く埋もれて         6 西国十番 長命寺
  夏草しげき 堀のあと           汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
  古城にひとり 佇めば           黄金の波に いざ漕がん
  比良も伊吹も 夢のごと          語れ我が友 熱き心


「ひつじぐさ」と吉田千秋
周航歌は長い間小口太郎の作詞作曲と思われてきた。昭和40年代の後半、独特の哀感をもって歌い大ヒットした加藤登紀子のCDレーベルにも小口の作詞作曲と書いてある。

昭和50年代になって三高OBの精力的な調査によって、小口達が周航歌の譜に借りたメロディーは、「吉田千秋」が大正4年(1915)に雑誌「音楽界」8月号に発表した「ひつじぐさ」であることが判った。

彼は、明治43年に「英語青年」誌で紹介された英詩『Water Lilies』を自分で七五調に訳し、曲を付けて「ROMAJI」誌に「Hitsuji−Gusa(ひつじぐさ)」として投稿した。彼が18歳の時である。この「ひつじぐさ」を三高の音楽グループである「桜楽会」が取入れ、校内で歌われるようになった。

この英詩Water Liliesは、英国の児童唱歌(E.R.B)の歌詞であるという。長い間、吉田千秋がどうゆう人であるのか分からなかったが、平成5年 旧今津町が周航歌開示75周年の記念行事に際して呼びかけた"吉田探し"で彼の消息とプロフィルが判明した。

小口太郎と吉田千秋は生前に一度も出会ったことはなく、歌詞と曲が偶然にドッキングしてから、周航歌の原曲となったメロディーの作曲者として世間に認知されるようになるまでには、実に80年の年月が流れた。

吉田千秋は明治28年(1895)新潟県新津市大鹿に生まれた。父は「大日本地名辞典」を著した高名な歴史地理学者の吉田東伍である。若くして博物学、語学、和歌、宗教、音楽など多趣味で何でも興味を持った。

小学生の頃から結核を患い、療養をかねて父親の郷里である新潟の大鹿で過ごすことが多かった。近くにあったキリスト教会の集会に密かに参加するなど聖書や賛美歌にも親しんだ。歌が好きで幾つかの楽器をひき、音楽は独力で勉強した。作曲は教会音楽に接する中で育まれたと言われる。

24才の短い生涯であったが、「ひつじぐさ」の何か物悲しく ゆったりとして心の和む旋律は、苦しい療養生活と宗教的な心情から吐露したものではなかっただろうか。柔らかな感性と優しい風韻を忍ばせている この「ひつじぐさ」の訳詩を原詩と対比して次に記す。周航歌のメロディ−に乗せて歌ってみていただきたい。

   [Water Lilies]                       [ひつじぐさ]       
Misty moonlight, faintly falling            おぼろ月夜の月明かり
O'er the lake at eventide,               かすかに池の面(おも)に落ち、
Shows a thousand gleaming lilies          波間に浮かぶ数知らぬ 
On the ripping waters wide.              ひつじぐさをぞ照らすなる。   

White as snow, the circling petals         雪かとまがふ花びらは
Cluster round earch golden star,          黄金の蕊(しべ)を取り巻きつ:_
rising, falling with the waters,            波のまにまに揺るげども
Moving, yet at rest they are.            花の心は波立たず。

Winds may blow, and skies may darken,      風吹かば吹け、空曇れ
Rain may pour, and waves may swell;       雨降れ、波立て_さりながら
Deep beneath the changeful eddies         あだなみの下底深く、
Lilies roots are fastened well.            生えいでたりぬ、ひつじぐさ。
 

3.周航歌に思う
ここでは叙情的な周航歌の作詞者として小口太郎を育んだルーツとその詩のこころは何処にあるのか私見をお許し願って探ってみたい。

小口太郎を育んだルーツ
小口太郎が生きた明治末から大正期は、日露戦争が終って藩閥体制の閉塞感から脱しようと政治が民衆に目をむけ、また文芸面でも社会の真実や善を追求した自然主義派の文学が盛んになるなど自由な雰囲気の中で多彩な文化が開花した。若者達は概ね自由に青春を謳歌できるようになった時代である。

この頃信州では師範学校出の「白樺派教師」とよばれる若い教師達によって個性教育を重視する「理想の学校」づくりが盛んになっていた。
この教師達の指導は、基礎をしっかり教えこみ、官製教育の枠に縛られずに子供たちの長所を生かし個性を延ばそうというものであった。

太郎の優れた文才と音楽的な素養は少年時代をこのような環境の中で過ごすことによって大いに育まれたと思う。

裕福な農家の9人兄弟の長男として育った太郎は、気は優しく素直で器用な男であったようだ。当時の農家としては大変音楽的雰囲気の強い家庭であったらしく、父親の尺八の師範をはじめ、兄弟は皆それぞれ何かの楽器をこなし、太郎が愛用したバイオリンが残っている。
一方、信州出身の高野辰之(国文学者)によって山国の自然を題材とした「故郷」、「春が来た」や「朧月夜」などの優れた唱歌が発表されたこともあって、「小学唱歌」が学校だけでなく外でもよく歌われた。

太郎は、周航歌が誕生してしてからも暫くの間、自分の作った歌詞には「寧楽(なら)の都」のメロディーがよいと級友に漏らしていた。いつも歌い親しんでいた唱歌のメロディーが先ず浮かんだのだろう。周航歌の「われは湖(うみ)の子・・」の序奏は小学唱歌「われは海の子」からのごく自然な想いつきであったと思う。

また、太郎は、幼少の頃から兄弟や友達の間で回し読みした実業之日本社の少年雑誌「日本少年」を愛読したというが、この雑誌で彼の文才が大いに培われ、大きく感化されたと思われる。少年時代の作文を読んでみると、鋭い観察力や詩情豊かな創造力をもった才能には驚くばかりである。

中学時代になって当時 諏訪視学官でアララギ派歌人の塚原俊夫(後の島木赤彦)に私淑したというから、彼の新体詩や和歌などの訓導によって太郎の才能は益々陶冶されたようである。

太郎が今津で友人に出した絵葉書に「・・・月をながめ、美人を天の一方に望んだ。・・・」と記した文章は北宋の詩人「蘇軾」が詠んだ漢詩「前赤壁賦」の「・・渺渺兮予懐、望美人兮天一方・・」(渺渺たる予が懐い、美人を天の一方に望む)から引用したもので、これがとっさに書けるということは、太郎の漢文・漢詩の知識も如何に深かったかを想像できよう。

詩のこころ
周航歌の世界は漂泊の旅であるといわれる。漕艇による湖上のさすらいを通じて琵琶湖の美しい風景に青春のロマンを滲ませた詩である。その詩風は姫路生まれの詩人 有本芳水の影響を強く受けていると私は思う。

周航歌が誕生する3年前の大正3年(1914)に芳水は、それまで「日本少年」に投稿してきた詩を集めて「芳水詩集」を出版した。後に島崎藤村が絶賛したと伝えられるこの「芳水詩集」を太郎も愛誦したに相違ない。

周航歌の「旅にしあればしみじみと」(第1節)は、芳水詩集の序文「・・旅にしあればしみじみと 赤き灯かげに泣かれぬる。されば人生は旅なり。・・」から借用したと思われる。

「松は緑に、砂白き」(2節)、「赤い泊火」(3節)、「瑠璃の花園」(4節)、「黄金の波」(6節)など琵琶湖の風光を鮮やかな色彩で表現した文語調の定形詩形や浪漫的な詩風は芳水の詩によく似ているし、詩集の中の言葉が散りばめられている。

また芳水の名詩「粉河寺」や「琵琶のみづうみ」に続けて周航歌の歌詞を詠んでもあまり違和感が感じられない。
芳水は当時「日本少年」の主筆として多くの詩を発表し、少年の日のさすらいと孤独な思いが自我にめざめる少年達を魅了した。

芳水は、旅に詩を求め、詩によって少年の情緒を育ませた。太郎も芳水の詩に親しみ、人生を旅人として琵琶湖周航に想いを馳せたようだ。

「さすらいの旅」、「恋」、「行方定めぬ」迷い、心の静まる「仏の御手」、人生は「夢のごと」、心の触れ合う「熱き心」というように周航歌の各節に人生のキーワードを散りばめ、人生を琵琶湖周航ととらえて若者たちの情感を歌い込んでいる。そしてこれが吉田千秋の作曲したソフトでロマンチックな八分の六拍子のメロディーに合致して愛唱歌の名作に仕立てられた。

おわりに
高島市今津の港に程近い所に「琵琶湖周航の歌資料館」がある。ここは前号で述べた通り、周航歌の誕生地として旧今津町が平成10年4月に建設したものである。

ここでは周航歌が誕生したいきさつについて資料やパネルなどが分かり易く展示され、「気軽にそれぞれの周航の歌を聞けるコーナー」がある。22曲の異なった歌手や演奏でニュアンスの違う周航歌が楽しめるし、とりわけ 側面のパネルで楽譜をみながら原曲の「ひつじぐさ」(京大グリークラブ)の歌が聴けるのも嬉しい。

英国の児童唱歌「Water Lilies」や周航歌とよく間違われる「琵琶湖哀歌」(旧制四高ボート部員の琵琶湖遭難哀悼歌、堅田出身の奥野椰子夫作詞)も聴けて比較できる。

更にここの展示資料から驚かされるのは、小口太郎が文理両道に卓越した創造力を持つ人であったと言うことである。太郎は三高から東京大学の物理学科に進むが、在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、世界8ヶ国に特許をとった。しかしその才能も惜しまれながら26才の若さで夭折した。

旧今津町では毎年6月に「琵琶湖周航の歌音楽祭」合唱コンクールが開催される。全国から30以上のグループが集って、思い思いの歌い方で競う。また12月に地域の人達が参加して開かれる「湖国の第九」の演奏会では、オーケストラをバックに周航歌が合唱される。

周航歌に魅了されたハワイの日系二世が周航歌の歌い易い英訳を苦労して完成し、今津港の記念碑の前で披露した。彼は英語の周航歌を世界に発信し紹介したいという。

琵琶湖周航の寄港地6ヶ所に作られた記念碑は、各地域の琵琶湖への熱い想いが込められている。周航歌を通じて琵琶湖と郷土を見つめ直し、地域づくりや人づくりの意識を高めながら近江の文化遺産として次世代に、また広く世界に歌い継いで欲しいものである。   

                                                      (小林)





       
      

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