近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


 「能登川」の地名由来

  この研究報告の主な内容は平成18年4月に開催された当倶楽部の研究報告会で発表さ   れたものです。

1. 「能登川」の語源に就いての諸説
◎『能登川町史』
のど(咽喉)と同じ狭い通路の意味か、ぬと(沼地)の意か、何れにしても昔此の地に能登の名が先に生まれ、次に川があるから能登川と名付けられた。

◎『近江神崎郡志稿』
アイヌ語のノット(岬角)からきたという説は、適当で無く地勢上からきたもと思われるが不明である。

◎能登国(石川県)との関連説
大化年間(645〜649)の租庸調制度が敷かれた時、遠方から麻布を納入させることが不経済として、能登部(石川県)の民をこの地方に移住させて、「庸」(年間十人の力役の代替として、麻布二丈六尺を物納する)に役立てたことが、能登川の地名由来と言われている。

2.  「能登川」と言う川が無いのに何故能登川と言うのか

これはよく言われる疑問である。
通常「川」の付く地名(市町村名)の所には、必ずと言ってよい程同名の「川」が存在
する。
例えば県内では、愛知川町(現愛荘町)安曇川町(現高島市)、また県外では、兵庫県の加古川市、愛知県の木曽川町(現一宮市)等のように夫々同名の「川」が在り、その総べてが川のほとりに町が在ることが、通常の状態と言える。

但し、例外もある。現甲賀市の「貴生川」は、明治22年に近隣の4ケ村が合併して貴生川村が誕生した時、旧4ケ村の内貴、北内貴、虫生野、宇川より各々その一字づつをとって「貴生川」と命名され、後、水口町を経て甲賀市となり、現在は鉄道の駅名に名を止めている。従って「貴生川」と言う川は、存在しない。

然らば「能登川」は、どうだったのか。前記の能登川町史には、「昔この地に能登の名が先ず生まれ、次ぎに川が在るから能登川と名付けられた」と、説いているがこれは、逆だと思う。

先ず「能登」の名が生じた根拠は何か。その論拠は非常に薄弱であるし、現に「能登」の地名の痕跡は、何も見当たらない。

故に「能登川」の地名は、昔から能登川と称する川が存在し、後世、その川のほとりに集落が生まれ「能登川」と名付けられたと、考えるのが自然と言える。即ち、愛知川や安曇川と同じ条件だったと考えられる。この件に就いては、後ほど詳しく検証して行きたい。

3. 能登国との関連説に就いて

次ぎに「能登」と言う漢字に拘って、能登国や能登半島との関連説が、根強くあるのも事実である。
古来「能登」の国名や、地名には、その地方(石川県)独特の由来があり語源に就いては、アイヌ語のノット(岬)説や、能登半島の地形からいろいろと研究されている。
これは総べて日本海に接した半島を含めた臨海地方特有の地形が、その主なものと思う。

「能登川」と言う地名は、内陸部の滋賀県や奈良県にもある。従って内陸部の「能登」
と臨海部の「能登」は、何も共通点が無いのが当たり前で、これを関連付けようとする
所に無理があるのではないかと思う。

只、昔能登の地方から人が移り住んで、その人達が自分の生まれ故郷に因んで「能登」の地名を名付けたことも考えられるが、その場合は、「能登村」であって決して「能登川村」ではないはずです。この点私は飽くまで「川」に拘って、先に「川」が存在し、後ほど「村」が生まれたのではないかと言う推理を強調したい。

4. 語源追求の前提

「能登川」の地名由来を研究する前提として、私は独白の発想で次ぎの手順を組立て、調査と、それ等を基として仮説を立てその裏付けを、試みることとした。

@ 能登川と称した川の存在の確認
A 能登川地区を含めた湖東平野の地形図と、水系図の特徴
B 能登川の集落発祥の時期と、その後の経過
C 「能登」の語源追求−−−発想の転換
D 能登地方(石川県)との関連に就いての検証

5. 「能登川」と名付けられた川は、存在した

結論を先に言えば現在の瓜生川は、古来能登川だった。その検証は、江戸時代の二つの
古絵図で確認を得ることとした。

(1)伊庭村麁絵図(伊庭区長伝来文書、地図の部)
◎年代不詳  大きさ縦79糎×横113糎 (下図、詳しくは ここ pdf を参照)
◎現在の瓜生川は、「能登川」と明記されている
◎絵図の検証

年代不詳なるも絵図に、記入されている当時伊庭村と隣接する猪子村が「是より東北松平甲斐守様御領分」と、山路村が 「是より西北井伊掃部頭様御領分」と記されている。



松平甲斐守様とは、柳沢吉里(柳沢吉保の嫡子)のことで、享保9年(1724)に甲斐国から大和郡山藩に転封されて、猪子村の領主になったことから、この絵図は、旗本三枝氏の代官が、この年(1724)以降のしかるべく時期(江戸中期)に、伊庭村の概略図(麁絵図)として作成したものと推定できる。

(2)朝鮮人道見取絵図
◎文化3年(1806)江戸幕府の手によって作成された絵巻物
◎原本は国立国会図書館に保管
◎絵図の説明 (下図、詳しくは ここ pdf を参照)



上段は、能登川地区(現在の東近江市能登川町)が、中心の同絵図のレプリカをコピーしたもの。下段は、同絵図の解説篇として平成2年(1990)に東京美術杜が発刊したものの同じ箇所を合成しコピーしたものである。

文字が小さくて読みづらいが、ここにも瓜生川に該当する川は、「能登川」と、二箇所明記されていることが読み取れる。
即ち、前者は今から270〜280年位前の江戸中期の地方版絵図、後者は、200年前の
江戸後期の全国版の絵図で両者共に「能登川」と称されていた川の存在を証明している

6. 能登川から瓜生川への改名の経緯考察

(1)能登川の川名が、何故現在の瓜生川に変化しているのか、何時頃からか、またその
理由は何か、等の疑問に対していろいろ考察を試みた。


この川名の変更について明らかにしている文献は、何処にも見当たらない。昭和3年9月に発刊されている『近江神崎郡志稿』には、すでに能登川の川としての名称は、記されていない。

下巻の第四章、井川の項には、「瓜生川ほ五峰村(当時の村名)猪子にて二派となり、一は山路川となり、一は伊庭川」と記されており古絵図に記されている能登川は、伊庭川と認識されていたことが分かる。

事実この当時能登川村の地元の人達は、この川を能登川とは言わず「大川」と称していた。おそらく能登川と言う表現は、能登川の集落を指し、川は「大川」と言い使い分けをしていたと考えられる。

大阪市内を流れる淀川を、地元の人達が大川と称し親しんできたことと、同様だと理解したい。従って正しくは能登川と称する川名が、下流の伊庭村を通り伊庭内湖に注ぐため伊庭村の人達が、呼称する伊庭川の通称が、正しい川名になっていても誰も不思議とは思わず容認されてきたと思われる。これが第一の川名変更の原因ではなかろうか。

(2)次に第二点として決定的に「瓜生川」と称されることになったのは、昭和40年に
施行された「河川法」にあるのではないか。

「河川法」の法律は、日本全国の重要な河川を一級河川と二級河川に指定し、一級河川は国が、二級河川は県がそれぞれ管理し、河川改修や治水工事を行うものである。

(注)この法律の制定時、当時国会議員だった、宇野宗佑氏(後の内閣総理大臣)の 強い働きで、琵琶湖に流入する河川(約120本)は、総べて一級河川に指定された。理由は、琵琶湖の水は下流の京阪神地区の膨大な地域の貴重な水源故に総べて国が管理するのが、妥当であると言うこと。

河川法の施行後は、河川の名称がその流域によって異なる通称や地場名では不都合
な為「○○水系」といった統一名が必要となったことの結果と考えられる。

従って古来「能登川」だったこの水系の河川は、最上流が瓜生川である為に「瓜生川水系」と、統一呼称されて、以後の河川改修工事等が行われ、以来「瓜生川」の名称が一般に定着し現在に至っているものと、私は結論付けました。
(備考)
もし、この考察の通りならば、「○○水系」と言った河川名の統一に際し、これを担当した行政の関係者は、その名称統一にどのようなルールがあったかは、知らないが前述の「能登川」だった歴史的史実に、配慮が欠けていたのではなかろうか。
既に地名、町名、駅名等に定着している「能登川」を、無視した格好で「瓜生川」と改名したことは、誠に残念だったことを付記しておきたい。

7. 湖東平野を流れる川の特徴

『八日市市史』と『五個荘町史』から転載させて戴いたのが、下図である。詳細はここ pdf参照。以下この両文献からそれぞれ引用させて戴き、記述を続けます。



(1)『八日市市史』の水系図
鈴鹿山脈に降った大量の雨は、大小の河川によって、湖東平野を琵琶湖に向かって流下するが、大きな川(犬上川、愛知川、日野川等)は、直接琵琶湖迄到達する。
しかし、中小河川の中には、平野の中程(標高120〜125メートル)で、扇状地の地表の雨と共に伏流して地下水となる。
(注)扇状地は、粗粒な砂礫からなるため地表水が、地下に浸透しやすく乏水性の土地である。(八日市市史より)

この地下水は、標高100〜110メートルの地点で、湧水となり地表に現れ再びこの湧水を水源とする川を形成し、琵琶湖に到達する。(上図の湧水線参照)

(2)『五個荘町史』から瓜生川水系の水系図(別図の明治26年頃の景観復元図)同町史からの抜粋要約

第一章第三節 五個荘の地形より簗瀬、宮荘、金堂、川並など本町の主要な集落は、扇状地の中の大規模な微高地で、標高103〜105メートル付近に帯状に立地し、その北端はほぼ一直線に並んでいる。

このあたりは地下水位が浅く湧水が豊富であることが特徴で、図のごとく湧水点を谷頭とする川が5本(三田川、宮荘川等)描かれている。
これら湧水を水源とする川は、七里から下日吉の地点で、瓜生川に合流していることが分かる。

一方、瓜生川は、川並の繖山の山地を起点とし、途中同じ山中を水源とする石馬寺川も合流するが、この二川とも平時は流水が無く降雨のときは、水流と共に大量の土砂を流出させる所謂、天井川である。当然前者の湧水地を水源とする5本の川と後者の二つの川は、全くその性質が異なることが分かる。

従って、能登川地域を流れる水量の豊富な瓜生川は、川の最上流が瓜生川の名称である天井川の特徴では無いことから、この水系の川を「瓜生川水系」と名付けられていること そのものが、矛盾と言えないだろうか。

8. 能登川の地名は何時頃起こったか
瓜生川が能登川だった川の経緯は、既述の通りだが「能登川」は、村(地名)が先か、川が先だったのかを、追求してみたい。

能登川の集落の誕生に就いては、定説がある。
安土桃山時代の文禄3年(1594)に当時伊庭庄の領主だった徳永壽昌法印(1549〜1612)が、元亀、天正の戦乱によって、荒廃した伊庭庄の復興に努め、領内の能登川(現在の瓜生川)から取水した水を、下街道と呼ばれていた、後の朝鮮人街道の両側に並行して、7〜8メートル奥に、幅30〜50センチメートルの水路を掘り、水を流し生活用水に当て、更に街道に面して間口五間、奥行き十間の屋敷割りを行い、ここに住む人には、その土地を与え地代を免除した。

理由は、伊庭庄の本郷が街道を外れた位置に在り、街道を往来する人や、物資との交流
に不便であること。所謂本郷の活性化を計った。

この屋敷割りや、水路は現在でも能登川の集落にその名残を止めている。
また、かつての能登川港を開いたのもこの時と言われ、この事業は現代で言えば、立派
な都市計画で造られたものと言える。

その後集落は街道の両側だけに、止まらず年と共に順次家屋は増加し、現在の姿に発展
を続けることとなるが、この集落は、当初伊庭村の枝郷(出郷)として、「伊庭村の内
能登川町」の地名だった。(前述の朝鮮人道見取絵図及び伊庭村麁絵図参照)

明治維新後、能登川、安楽寺、北須田の各枝郷は、伊庭村より分村し、それぞれ独立の
村を形成する過程は、拙著本編の第五章に詳細を記録している。即ち能登川の集落は、
正式には明治13年に「能登川村」の名称となり地名となる。

以上のごとく「能登川」の地名は、能登川と言う川のほとりに、計画的に新設された、
能登川の集落が起原となっていることは、明白な史実と言わざるを得ない。

9. 能登川の地名発展の経過
(1)国鉄(現JR)能登川駅
明治維新後文明開化の最重要事業の一つに鉄道建設がある。明治5年に東京新橋〜
横浜間の開通をはじめに、関西では明治7年に神戸〜大阪間、さらに同13年には
大津迄延長、一方東の方からは、明治16年に東京〜長浜間が開通し、しばらくは
長浜〜浜大津間が、琵琶湖の大湖汽船による湖上交通区間だったが、二度の積替え
は、非能率だとの理由で、明治22年には、近江長岡〜大津間の湖東区間の開通
で、東海道本線は、一本の鉄路で結ばれた。

この時、米原、彦根、能登川、近江八幡、草津に駅を設置することが決まる。
能登川に駅を設ける理由は、彦根〜近江八幡のほぼ中間であること、能登川港の湖
上交通機関との関係、蒸気機関車への給水基地に適した良質の地下水の豊富な地域
(電化される迄は、能登川駅の上下プラットホームの端に給水タンクが在った)
更に、停車した列車が一定の速度になる迄は、勾配の無い平坦な地形が必要だった
こと等を、考慮してのことだったと思われる。

従って駅の位置は、通称浜能登川と言われていた、現在の東近江市能登川町付近で
駅名は、能登川駅と決められていたと推定出来る。

しかし、調査の結果内湖に近いこの付近は、地盤が軟弱で不適格となり、愛知川の
鉄橋に向かってのレールの勾配を考えれば、不充分ながら東方へずらせることを
検討中、現在の駅の土地の地主だった垣見の藤野太平氏の先見の明の御厚意による
土地の無償提供によって、一気に駅建設が実現する。(『能登川てんこもり』)
このような経緯を経て当時に知名度の高かった能登川が、駅名となったと思う。

(2)能登川町の成立
昭和の大合併により昭和17年神崎郡西部五ケ村(五峰村、八幡村、伊庭村、能登
川村、栗見村)が誕生した時、旧五ケ村のうちで面積、人口共に一番少なかった、
能登川村の地名が町名に採用されたのは、町の中心地が五峰村と八幡村に所属して
いたにもかかわらず、駅名が能登川駅だったことが、対外的にも知名度からしても
最適と言う判断だったと言える。

町制施行後も町は、駅前を中心に発展を続けた。蒸気機関車だった頃の準急行列車
は電化後も、新快速電車の停車駅となり、京阪神地区のベットタウンとして、人口
も急増し「能登川」の知名度は、益々向上することになる。

(3)東近江市への合併
平成の大合併時代を迎え平成18年、能登川町は東近江市に合併し、広域の町名は
消滅するが、「能登川」の地名の発祥地だった旧大字能登川は、新市内の一町名と
して引き継がれ「東近江市能登川町」で残ることとなり、地名の歴史からいっても
大変意義深いものとなった。

更に、「能登川」の名称は今後も駅名の他にも、小中高の「学校名」「病院名」、
その他多くのこの地域の公共施設や、各種団体の名称に、或いは民間の商業施設等
にも広く使用され続けるだろうが、「能登川」の地名となった、肝心の川の名称が
消滅していて、能登川と言う川は、何処へいった?川が無いのに、なぜ能登川というの?
この疑問が、持たれる現実を考えれば、誠に残念至極です。

10. 能登川の語源追求の手法
現在の瓜生川が古来「能登川」の名称だった事実を前提に、何故「能登」と言う「川」
だったのか、その語源を徹底的に追求してみたい。

今まで述べてきたことは、調査の結果の史実に基づくものだったが、以後の記述は種々
の文献をヒントに、私自身の自由な発想で立てた仮説と、その裏付けを試みたものです。
従って「能登川」の語源に就いて、私の提案として、受取っていただきたい。以下手順を追って説明します。

(1)「能登」という字のつく地名調べ
能登の字の付く地名、あるいは名称は全国に数十ケ所見られるが、圧倒的に多いの
は、やはり石川県である。能登国や能登半島は、その代表的なもので、広く世間に
知られている知名度の高いものは、総べて石川県に存在する。

石川県以外で「能登」が付く地名や川名を、全国地図で調べてみると、次のごとき
ものがある。
◎「能登川」は、滋賀県(当地)と奈良県(奈良市、春日山の山中が源流で、柳生
街道沿いの川名)

◎「能登瀬」は、滋賀県米原市(旧近江町)と愛知県(南設楽郡、JR飯田線沿い
の鳳来湖の近くの地名)

◎「能登原」は、広島県(沼隈郡、瀬戸内海備後灘の海岸沿いで靹の浦の西)
私の調べでは以上ですが、調査不充分で未だ他にも在るかも知れない。

尚、「のと」の地名で石川県に「能登」では無く、「能都」と漢字違いの町名が
ある。(鳳至郡能都町)

(2) 臨海部(石川県)の「能登」と内陸部の「能登」
「能登」の付く地名を、総べて石川県の能登地方と、結び付け関連付けようとする
考え方は、基本的には無視出来ないが、これに拘っていると解決の糸口は、見出せ
ないことになる。

地名とは、その地方の独特の地形や自然現象、環境等が語源となっていることが、
多いようである。
地形的に日本海に、半島が突き出ている、臨海部の能登地方と、
滋賀県、奈良県、愛知県のような内陸部にある「能登」とは、何の共通点も無いと
考えるべきと思う。

ここで、地名に就いての考え方の参考文献の一部を二〜三紹介してみたい。

◎吉崎正松 『都道府県名と国名の起原』 血テ今書院
☆地名を表すのに単に漢字の字音を当てたものがはなはだ多い。
☆音そのものについて考察することが必要

◎『地名学入門』 大修館書店
☆現代の地名の文字、発音は命名当時そのままということは少なく、何らかの
時代的変換を経てきている。
☆漢字によって変えられてきた歴史を、元に解きほぐして原形の文字、発音を
復元することが先決問題である。

◎武光 誠 『地名由来を知る事典』 東京堂出版
☆漢字を手懸りに、地名の起こりを考えると、的外れな推測をする場合が多い
と言うのは、地名が何時の間にか、もとの意味を離れた好字に、書き換えら
れたり、馴染みの薄い字で書かれていた地名が、分り易い字の地名にかえら
れたりするからである。

11. 発想の転換
前節の考え方を元に「能登」の字音に就いて考察を試みる。
「の」の字音の漢字は、能の他に「野」「之」「乃」、送り仮名を付ければ「伸」びる
          「乗」る、「飲」む等がある
「と」の字音の漢字は、登の他に「戸」「都」「途」「徒」「斗」、同じく仮名を付け
           ると「取」る、「止」まる等数多い。

この中から「野」と「都」を組み合わせて、「のと」--「野都」の二字を採用して、
この地方特有の地形や自然現象に、繋がるものがないかを、考えてみると
「野」は、「野原」即ち「湖東平野」の意
「都」は、漢和辞典で調べてみると「みやこ」「みやびやか」「うつくしい」の他に、
もう一つの意味に「いけ」「みずたまり」があり、古くは「瀦」或いは「猪」に通ずと
ある。 詳しくは ここ を参照。
(注)調査した辞典は、
『新修漢和大辞典』 株歯カ館 昭和7年2月初版発行
『大漢和辞典』(巻十一)椛蜿C館書店 昭和34年初版発行

この組み合せでの「野都」と言う川の意味は、湖東平野で、伏流水となった地下水が、
五個荘地区(野)で地上に表れ、数箇所の池や水溜まり(都)が、水源となり水量豊富
な川を形成し、琵琶湖へ注ぐ川名「野都川」は、現在の「能登川」から転じた瓜生川の
原名と言うことになる。

本来の「野都川」は、何時のまにか知名度の高い、また、よく使われている同じ字音の
「能登」の字に書換えられて、「能登川」となって現在に至ったことになる。
言い換えれば「能登川」は、もとの意味を失ってしまった漢字に書換えられたと言える。

「野都」が「能登」に変換された経緯については、冒頭に記した「能登国」との関連説
や、もっと後世になってから、能登国からの人の移住によるもの等の説もあるが、何れ
も年代の辻褄が合わない点があり、現在の所は、深く追求を行っていない。

しかし、当地に移り住んだ人が自分の生まれ故郷に因んで同じ字音の漢字に置き換えた
と言うことは、充分考えられるので研究の余地は、あると思う。
以上のストーリーが、私の考察した能登川の地名由来です。

12. 漢字が書換えられて、命名された元の意味を失ってしまっている他の例
(1)身近かな所では、南須田の「五十余州神社」の「州」の字が、元は「衆」だった。
同神社に伝わる「由緒書」によれば、天正10年(1852)本能寺の変後、明智勢
による安土城並びに、当時織田方に所属していた観音寺城の接収時に、観音寺城の
守備に当たっていた、三上伊賀守以下五十余人が討ち死にした亡骸を葬ったのが、
同神社である。

この五十余人即ち五十余衆の「衆」の字を、いつの時代かに「州」
に書き誤ったと記されている。この件は、本編の第二章のうち「南須田の氏神五十
余州神社」の項及び資料編の、「五十余州大明神由緒書社内奉納秘蔵写」を参照の
こと。

(2)県内では、東近江市妹町(旧愛東町大字妹)の地名は、元「井元」城のあった所で
ある。

井元城は、戦国時代織田信長の近江侵攻時、鯰江城の攻防の陣城として、
構築された「重ね馬出し」の構造を持つ、特殊な城だったようです。
(中井 均著『近江の城』サンライズ出版株ュ行より)「井元」が「妹」に変換

(3)県外で有名なものは、長野県のスキー場で知られる「白馬岳」の元は、「代馬岳」
だった。

冬の雪で覆われた山が、春の雪解けの始め頃、黒い山肌が現れる。この形
が苗代を耕す農耕馬に似て見えることから「代馬岳」と名付けられ、地元の人達は
これを合図に、農作業を始めたと言う。何時の境か「白馬岳」と当て字されたが、
この村の名称が白馬(はくば)村となっては、もはや語源の「代(しろ)馬」とは
全く縁が切れてしまう。(大修館書店発行の『地名学入門』より)

(4)地名が好字に書換えられ、且つ地名の枕詞に当て字された漢字と併用されている
特殊な例「奈良県高市郡明日香村大字飛鳥」である
「あすか」の語源は、古代この地方に、秋になると「いすか」と言う、くちばしが
交差しているアトリ科の渡鳥が飛んで来た。

「いすか」が「あすか」になまり「飛鳥(とぶとり)のあすか」と、言われて地名
となったが、その枕詞になった飛鳥(とぶとり)を、「あすか」と読むようになり
地元の住民は、縁起の良い「明日香」の好字に書換え、現在二つの漢字が共に地名
となり両方が併用されている。
(小学館発行『日本百科大事典』より)

以上の諸例の他にもまだ多くの漢字の書換え地名があると患うが、「能登川」の場合も
当地方独特の地理的条件や環境から命名された「野都川」が、能登国との関連があるよ
うな地名に置き換わって、元の語源の意味を失ってしまっていると言えよう。

(補足)
川の変化と瓜生川の改修
能登川地区には、瓜生川水系と、大同川水系の二つの水量豊富な川が流れていて
旧能登川町のシンボルになっていた、水車が最盛期には、旧町内に約30ケ所も
稼働していた時代もあったという。

能登川西小学校のグランドのすぐ近くを、蛇行していた「大川」の清流には、夏
になると「梅花藻」が咲き、川魚が群れをなして泳いでいた。学校にプール設備
の無かった頃の地元の子供達は、この「大川」で泳ぎ、住民は川と共に親しんで
生活してきた。

戦後の時代となり種々な環境の変化は、様々な自然にも影響を及ぼし、川も変化
してきた。圃場整備に伴う河川改修でかつての「大川」は、真っ直ぐな川に改良
され水量も何時の間にか減少の傾向に転じ、大きく姿を変えた現在の「瓜生川」
は昔の清流だった大川(能登川)の面影を、失いつつある。

能登川の地名と共に能登川の川も何時しか幻とならない様、後世に伝えてゆきたいものである。

                                                       (川村)
       
      

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