近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


 武家の殉死  〔研究紀要 郷土史より〕



江戸時代の領主
  私の住所(東近江市北須田町)は、江戸時代それまで幕府の直轄地だったが、元禄11年(1698)徳川幕府の旗本三枝土佐守(6,000〜8,000石)の知行地となり、明治維新の上地(あげち)改革による采地奉還まで、約170年間旗本領でした。

  旗本は、幕府常勤の為江戸に屋敷を構え、知行地には代官所を置き領地の管理は代官が取り仕切るシステムだった。その石高は時代により宗家への加増や当主の舎弟の分家に際し、何がしかの石高を分知し独立させ、一族の繁栄を計り変化があったが、近江国が知行地となった時は、近江国のうちに7,000石、武蔵国に500石合計7,500石でした。

 近江国7,000石の内訳は
   神崎郡伊庭村、現東近江市伊庭町(旧能登川町内)の約2,500石
   蒲生郡朝小井村、現近江八幡市朝小井町の約2,000石
   野洲郡比留田村、現野洲市比留田町(旧中主町内)の約1,500石
   残り1,000石は、他藩領との相給(あいきゅう)で、守山の中村等4〜5村に分かれていました。
 (註)
一.相給とは幕府の旗本や諸藩の家臣の知行形態で、一村が2人以上の領主に分割される形で知行されること。
一.近江国の7,000石の内訳は調査文献によって、多少異なる点があります。
 このうち石高の一番多かった神崎郡伊庭村に代官所が置かれました。
           (私の住所は、この時代伊庭村の内の枝郷でした)

三枝(さいぐさ)氏とは
  三枝氏は元々甲斐国の武田晴信(後の信玄)・勝頼親子に仕え2代目の三枝勘解由守友は、武田二十四将の上席を占める重臣でしたが、勝頼が長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗し武田氏が滅亡した際、討ち死にしました。

 その後3代目守吉は、徳川家康に仕官替し徳川家臣となりました。
 (私の推測では家康は甲斐国の名門だった三枝氏を配下に置くことによって、甲斐国の平穏治世に利用することに目を付けたのではないでしょうか)

 4代目三枝守恵(もりしげ)は、徳川秀忠に召し出され大坂冬の陣・夏の陣に参戦後、24才の時徳川家光の小姓となり、三枝氏は徳川旗本の一員としてスタートすることになりました。

武勇を以って名を馳せた2代目守友とは異なり、守恵は小姓として気転を利かせ家光の身辺によく仕え大変気に入られ、家光が3代将軍に就くと間も無く従五位下土佐守に叙任されて殿上人の官位を得る迄になりました。

 家光の小姓時は200石だった守恵は、その後出世を繰り返し15年後には6,000石の上級旗本で御書院番頭となり、家光の側近として幕内に於ける不動の地位を築き上げ、歴代三枝家当主の中でも特筆すべき傑物だったようです。

武家の殉死
  当地に収蔵している三枝家文書百八点(旧能登川町の指定文化財)の「系譜」に、
  「三枝土佐守守恵が大猶院(三代将軍家光)様薨去之節殉死仕候
一.右殉死に付日光山妙道院に葬
一.右に付上野山内現竜院に石碑建之」
とあります。

 機会を得て、東京上野東叡山寛永寺内の現竜院を訪ねた。JR鶯谷駅近くの現竜院墓地の徳川家光死去の際に殉死した人達の墓に詣でる。

「殉死者の墓」と記した台東区教育委員会の標示板によると、その時の殉死者は、
一. 老中下総佐倉藩主堀田加賀守正盛
一. 老中武蔵岩槻藩主阿部対馬守重次および重次に殉じた家臣五名
一. 下野鹿沼藩主内田信濃守正信および正信に殉じた家臣二名
一. 元書院番頭三枝土佐守守恵および守恵に殉じた家臣一名
と記されている。

 更に、栃木県の日光山輪王寺内妙道院釈迦堂境内には、前記4名の殉死者の墓と他にもう1名、元小十人頭の奥山茂左衛門安重も殉死者として葬られ、家光死去時には、合計5
名の側近が家光に殉じたようです。

 「日光市史」や他の文献によりますと、この時の殉死者は、総数30数名に及んだと伝えられています。将軍が死ぬとその側近や近従大名が追い腹を切ると、その大名の側近が又自刃し、その又側近の者、馬の口とり、足軽、下僕までがその主人に殉じたという大事態となったようです。

 殉死とは主君の死に際して、生前身辺に仕えていた家来が自殺する。
戦国時代では家来の義務として、戦場で主君の馬前で討ち死にする機会を逸した者は、主君の死に際して後を追って、主従の契約を果たすという意味づけがあり、特に主従の人格的な結合が強い時にはしばしば行なわれた。

公式に殉死と決まるとその家族は永久に幕府の保護下におかれ、家督相続人は末代まで家門が保障される、といった不文律があった。

 ちなみに三枝家の家系を、「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)で調べてみると、江戸時代に分家などで三枝一統は全部で20に及んでいるが、家光に殉死した守恵の宗家は末代まで、又、守恵の二男、三男も総べて従五位下の官位に任ぜられ優遇されている事実がある。

殉死行為もこうした本当の忠義の為にする義腹、他藩に負けられない論腹、死後世間から褒められ、子孫が主家から優遇されることを見込んでする商腹(あきないばら)もあると風刺されていたようです。

 幕府は寛文3年(1663)四代将軍家綱の時、武家諸法度を大幅に改訂し殉死を厳禁した為、三枝守恵の殉死が最後になったはずでしたが、その後家綱の死に際し側近重役が3人も殉死を願い出、不許可を無視してその中の一人が切腹した。

しかし幕府はこれを罪人として家禄はとり潰しとなり、家の子郎党は皆路頭に迷ったとか。
 尚、明治天皇の崩御の際、乃木希典大将が殉死されたことは、近例として衆知の事だと思います。

三枝家のその後
  慶安4年(1691)家光は死去しました。格別の恩顧寵愛を受けていた守恵は、その3日後に切腹し主の後を追いました。

(写真は三枝守恵の墓石)

この後、6代目三枝守相(もりすけ)の時、元禄11年(1698)これまでの采地だった下野、武蔵、安房の三国の内から、近江国に知行地が転ぜられた。(上項参照)

こうした先祖を持つ徳川幕府旗本の名門三枝家も明治維新の荒波にのまれ12代目の三枝守道は朝廷に帰順を願い出て「王臣化」の道を選択し、明治2年士民采地奉還の願いを申出で、旧領地の放棄の止むなきに至り家臣団には永の暇つまり解雇を申し渡し、三枝家は解体となりました。

 守道の息子守経は新しい世の一士族として三枝宗家の存続と生きる道に苦慮し、東京で商業の道に活路を求めたが、2度の失敗で最終的に須田(私の住所)へ移住し、三枝家の元祖である守国を祭神とする「守国神社」(江戸屋敷から遷座した私の村の氏神)の守護を職とすべく地元の援助を受けることとなりました。

しかし、元代官だった浅井滋次郎氏や三枝家と関係の深かった地元有力者等の助力も空しく、守経は明治19年逝去、一女子があったが数年後病死され、三枝直系の宗家は絶えたということです。
 即ち、旗本8,000石の大身だった三枝宗家は、当地が終焉の地となりました。

 この経緯を詳しく知る資料文献が乏しく、明治政府による各旗本領の解体処分が、どのように進められたのかよく分からず、私の郷土史研究で一番知りたい点です。


(川村)



       

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