歴史研究・報告
明智光秀
明智光秀(享禄8年・1528年出生)の名前が歴史に登場してくるのは永禄10年(1567)越前一乗谷の朝倉義景の許から美濃に戻り、織田信長に仕えて後の光秀40歳以降である。

斎藤道三に仕える身の明智氏であったが、道三が義龍に討たれたことに当時の当主光安(光秀の父の弟)が妹の婿である道三に対する名分を立てるべく反発したため義龍により明智城が攻撃され光安は討ち死にを遂げるがその時、光秀は光安から明智家再興の夢を託され越前に逃亡したと言われる。時に弘治2年(1556)のことである。
光秀は一度は上洛し永禄3年(1560)から同5年(1562)の間に兵法、軍学などの武者修行のために諸国を遍歴し、一乗谷の朝倉義景の城下にやってきたのである。
一乗谷に足を運んだ光秀は当主の義景に仕官すると五百貫文の知行を得た。それは石高にすれば、五六百石ほどとか。光秀がいかに学識豊であり戦略家であっても、一介の浪人者がいきなり与えられる封禄ではない。
一説には、加賀一向一揆が、その後も朝倉方を攻めたので、光秀が一族の明智光春や光忠らとともに、一揆勢を撃退する功名を挙げたためとも言われている。
光秀が越前一乗谷に在ること3年目永禄8年(1565)5月京洛で足利13代将軍義輝が殺害される事件が起きた。そこで、義輝の弟・奈良一乗院門跡の覚慶を還俗させ、兄・義輝の仇を討たせるとともに、将軍に擁立の動きがつよまった。
このとき、覚慶は奈良興福寺に幽閉されていたが、この覚慶の救出に尽力したのが幕臣(義輝の近臣)細川藤孝であった。藤孝に無事救出された覚慶改め足利義秋(のち義昭)が越前一乗谷に赴き朝倉義景に出兵上洛を促すことになる。時に永禄9年11月末のことである。
翌永禄10年義景は一乗谷城外の安養寺を義昭の居館と定め、連日酒宴や歌会にと打ち興じた。この時、光秀は義昭と初めて対面したのである。やがて光秀は義昭の側近である細川藤孝に接近し義昭の将来のためには、織田信長を頼るように進言した。このようないきさつもあって藤孝の推薦により光秀は義昭の家臣に取り立てられることになり、朝倉氏を辞去することになる。
越前一乗谷をあとにして美濃に入ると、既に斎藤氏を滅ぼし美濃の国を制圧して岐阜を居城にしていた信長に、光秀は義昭の家臣という立場で出仕したのである。
信長は己と光秀が縁故関係(光秀の叔母が斎藤道三の室であり、その娘・濃姫が信長の正室であった)にあると意識したか否かはともかく、着々と大国経営に乗り出しつつあった信長としては有能な家臣は幾人でも欲しいところであったと思われる。さらにまた、光秀が義昭に臣事していることも知悉していて光秀を通して義昭を己の天下布武に利用しょうとしたのかも知れない。この時、信長は光秀に美濃の国安八郡500貫文を与えている。
やがて、光秀は折を見て信長に、義昭を擁して上洛出兵するよう説いたのである。
永禄11年(1568)9月、信長は義昭を大将軍に推戴するため尾張・美濃の軍勢を率いて岐阜を発し近江の箕作城に六角承禎・義治父子を攻めて敗走させると同月26日義昭を奉じて京都に入ったのである。そして、10月18日義昭「征夷大将軍」就任。
永禄12年(1569)4月義昭は信長によって新築なった二条城に入る。光秀は京都奉行として活躍し、いわゆる義昭を中心にした幕府による政治と信長の「天下布武」に政治の二重政権が存在することになり、信任を得て信長の武将として知行を与えられながら同時に将軍となった義昭の側近としてその扶持を受けたのである。
元亀元年(1570)4月信長は朝倉氏が上洛命令に従わないため、光秀、秀吉を従え朝倉氏を攻撃すべく越前に入り手筒山城を落とし金ヶ崎城も攻略するも浅井長政の謀反に遭い撤退し「姉川合戦」で勝利を収めている。
光秀は元亀2年7月信長から近江国志賀郡5万石を与えられ宇佐山城を居城とする。同年9月比叡山焼き討ち。同年12月坂本城築城開始。
光秀が自ら信長の忠実な家臣となるのは、信長と義昭の二重政権が破局にのめり込んだ天正元年(1573)2月であった。
信長が、将軍義昭の支配権に掣肘を加えるようになると、光秀は不本意ながらも信長の命を奉じて義昭の行動束縛に手を貸すようになるが、そのうちに信長の麾下にあって戦う光秀の敵が義昭の与党だとわかってくると、もはや不本意では済まされなくなる。とくに光秀が叡山焼き討ちの戦功によって近江坂本城主に抜擢され、所領内志賀郡の支配に乗り出すと直接、義昭の対信長戦略と衝突することとなった。
光秀の近江志賀郡支配を妨害したのは、浅井長政の軍勢と堅田の一向一揆だったが、それを裏で操っていたのは義昭だったからである。よって、天正元年(1573)2月に光秀が近江の今堅田城を攻撃したときその城には義昭の側近たちが篭城しており、この時点から光秀は義昭と完全に袂を分かったことになる。
その後、丹波攻略、本願寺攻め、雑賀〈さいが〉攻め松永久秀、荒木村重などの討伐に戦功を挙げ天正8年(1580年)8月築城成った安土城に伺候、丹波・丹後平定後のすべての諸事項完了したことを報告した。信長は光秀に対し、此数年間の軍功第一とする。よってその方に丹波一国を与える。光秀は亀山城主となった。

また、藤孝には丹後が与えられ宮津城主となった。これで光秀は、坂本城主5万石と合せ34万石の大名に成り上がったのである。
畿内においてこれだけの領国を与えられた者はなく、光秀はまさに近畿管領というべき信長の最有力家臣としての地位を確立したのである。その後はしばらく鳴かず飛ばずの状態が続くのであった。
天正10年三月光秀は信長に従って甲斐に出陣し、武田勝頼討滅に立ち会った。そして、5月甲州征伐から戻った光秀は信長から、さきに武田勝頼討滅の戦功により駿河一国を与えられた徳川家康が御礼言上に安土城に伺候するので、15日来城の家康殿の饗応をその方に命ずる。光秀は慌てた。日にちは明日に迫っている。何故こんなぎりぎりになってと思う。
京都、大坂に人を走らせ調度や食品の珍しいものをかき集め漸く面目をほどこした。
すぐさま、今度は追い討ちをかけるように西国出陣命令だ。備中高松城を攻めて落城寸前まで追い込んだ秀吉が、勝利に花を添えようと信長本人の応援を要請してきた。
信長は光秀に対し、西国総出陣にあたって領地の丹波一国と近江志賀郡とを没収し、代りに未征服地の出雲・石見の両国を切り取り次第与えるという宣告をした。つまり国替えを命じたのである。その上さらに秀吉の下働きをせよと言う。2年前の、あの家臣中第一という褒め言葉はなんだったのだ?
さらに、事変の半月ほど前には丹波国内における光秀の軍事権が信長の三男信孝によって剥奪され同国中の諸侍に対し信孝命による四国遠征兵員動員がかけられていた。
この二つの出来事に、光秀は絶対絶命の窮地に追い込まれた。何故こんな目に遭うのか俺に落度があるとかという問題ではない。抗しきれない悪意の罠が動きはじめたのだ。光秀の胸中にむらむらするものが騒いだ。
現状の信長の武将達はどうであったか、滝川一益は関東に、柴田勝家は北陸に、丹羽長秀は四国征討準備のため大坂にあり、秀吉は備中高松城攻めで勝利寸前にある。ライバルの全てが遠征に出かけ、そして家康は京、堺見物で浮かれている今は反撃の絶対の好機ではないかときずいた。
今の状態は謀反成功の見通しは十分にある。信長・信忠父子を倒すことは必ずできる。
天正10年5月29日早朝信長は備中高松の毛利攻めをしている秀吉を応援のため安土城を出て、その夜は山岡景隆の瀬田城に泊まった。
30日朝30人ばかりの部下を連れて、7年前に架けた瀬田橋を渡って京都本能寺に向かったのである。
光秀は5月17日安土から坂本に帰った頃から既に謀反のことは考えていたであろう。然し決断はつかなかった。26日坂本から亀山に入ったときにも迷っていたに相違ない。そこでこの決断を神に依頼したのである。光秀は28日愛宕山に登った。運命の決定を将軍地蔵の判断に任せたのである。
幾度も籤を引いたというのは迷いに迷ったからであろう。若し吉か大吉が出ておれば二度、三度は引きはしない。凶か或いは大凶が出ていたので恐れをなして、もう一度引けば大吉が出たあまりの出来すぎにこんどこそと引いたのが小吉であり納得した。そんな想像をするのである。そして、29日には決心がついていた。西の坊での連歌の発句はこの決意を語るものである。
時は今あめが下しる五月哉「時」は光秀の出自の姓土岐にかけたもの。「あめが下」は天下、という意味の隠し句だという見方はすでに定着している。
6月1日夜光秀は鉄砲隊、長柄槍隊を先頭に重装備一万三千の軍勢を率いて、丹波亀山城を出発したが、備中に向かう三草越えをやめ、方向を東に変え丹波と京の国境の老ノ坂へと向かった。老ノ坂から沓掛に出て休息し此時光秀は全軍に「備中出陣の軍装を信長に見せる為京に入る」との指令を出したのである。
明智軍が本能寺を襲撃したときの様子を、信長公記は次のように描写している。
信長初めには御弓を取り合い、二つ三つ遊ばし候へば御弓の弦切れ、其後御鑓にて御戦ひなされ御肘に鑓疵を被られ引退き、是迄御そばに女共付きそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け焼来り候。御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引立て無情御腹めされ……
信長は、最後には一人で部屋の中に入って自ら命を絶ったわけで、信長の最期を目撃した人は一人もいない。光秀はほぼ完璧に謀反の挙兵を成功させたのである。
光秀は、信長軍と敵対・交戦する毛利、上杉、北条、長宗我部などの諸大名や懇意の武将へ書状を遣わし信長の死を知らせ同盟及び帰属を求めた。主君を討った逆臣の我が身をどのように正当化し、ことの大儀名分を何様にするか熟慮したに違いない
未の刻(午後2時頃)光秀は京都を発って近江大津へ向かった。安土へ向かったのである。光秀は瀬田城主の山岡景隆に人質を出して同心するよう要求した。然し景隆はこれを拒絶し瀬田橋と同城を焼いて甲賀郡に退去してしまった。光秀はこの日は坂本城に入る。ここで、素朴な疑問が残るのである。
田上大日山麓の瀬田川下流に古くから黒瀬の徒歩といわれ、唯一の瀬田川を歩いて渡れる地点があるのに、光秀は何故此処を渡らなかったのか。3日後の6月5日修築を命じていた瀬田橋が完成し光秀は安土城へ登った。
秀吉の長浜城・丹羽長秀の佐和山城も占拠筒井順慶の兵の一部が明智軍に合流。8日坂本城に帰還。9日入洛。細川藤孝・忠興父子を味方に誘うも拒絶される。又この日筒井順慶も河内の国出陣を取り止め大和郡山城に軍を溜める。
10日中国大返しの秀吉軍の接近の情報入る。11日秀吉、摂津の国尼崎着陣。13日山崎合戦、劣勢となり再起を賭けて坂本城へ帰還する途中で小来栖で落ち武者狩りの百姓に討たれ重傷を負い家来の介錯により自刃。
光秀は、信長に仕えてからは粉骨砕身まさに忠義を尽くして常に戦陣の中に身を置き、「天下布武」のため働いてきた。変後の稚拙狼狽の行動は到底天下人とは思えない 。
(小山)
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