近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


狛坂佛源流への旅(回想)


機首が上昇し、雲海を抜けると、真っ青な晩秋の空が広がって、私にとって初めての就航であり、しかも念願の渡韓の朝としては、格好の機であったと記憶する。それは、昭和57年11月のことであった。

さて、実は今回この追憶を書いてみようと思ったのは、3年前「会報」第6号で『かくれ里へのこだわり』において、白州正子との若干の交流に及んだ記事最後のところで彼女が『こまさか狛坂というからには帰化人が領した土地で、朝鮮の景色も私は知らないが、この辺の岩山に似ているのではないだろうか』と記していったことが、まさしく私の追憶をかきたてたことでもあった。

 話は元へ戻るが、思ったより朝鮮半島は近く、機は1時間足らずで眼下に釜山を望んだことであった。 その頃すでに韓国はあらゆる点で近代化が急速に進んでいたが、ふと見た農村の遠望の中に営農の遅れをかいま見たことも事実であった。

 さて、「こまさか狛坂石佛源流紀行」が、このように若干の前置(伏線)を記させて頂きながら進めてゆくかと言えば、この「狛坂磨崖石佛」(国史跡)については、思いのほか一般的には知られていないこと、もし知っておられても実際にあの奥深い現地を訪れた方が少ないことであろう。

 当然のことながら滋賀県下の古寺、古社及び史跡のほとんどがまずまず足をはこべる中で、最も困難に近いのが「狛坂磨崖石佛」だと思われる。

 これからいよいよ本論に入ることになるが、もしお許し願えるならば、この湖南奥地の石佛などを一つの焦点として頂ければ幸いである。

 再度、話は韓国へ戻るが、この訪韓の狙いを古都慶州に定めた理由をまず語っておく必要があろう。かって私が社会教育に携わっていた頃の青年達約15名ばかりが、韓国史跡への旅をもちかけてきたわけで、とりわけその中で、私が数年来その青年達に語り続けてきた「狛坂磨崖石佛」に見る渡来工人造立説を青年達の眼で一度確かめてみようとの思いが大勢を占め、実現のはこびとなった。

 ただし、役所勤めの人も多く、たしか11月の連休利用の3日間が限度であったと記憶している。 幸いなことに、釜山から慶州までは素晴らしい高速道路で約二時間という早さで、初日午前中に慶州に到着できたことは何よりであった。

 さて、この訪韓について二、三私に慫慂(しょうよう)して下さった先学の方々、及び慶州でお世話を頂いた方々、特に南山七佛庵磨崖石佛を中心として、約四十キロにわたる遺跡を探訪する足がかりをつけて頂いた人々のことにもふれておきたい。

 慶州南山をお奨め下さったのは、前栗東歴史博物館長 宇野茂樹先生、元国立京都博物館学芸課長 井上正先生(この先生は数回狛坂磨崖石佛を訪れた)、さらに元神戸大学教授 故毛利久先生(この先生は栗東市内の佛像美術の調査を通じ長らく?懇にして頂いた)の諸先生である。
ついでながら、毛利先生には、「白鳳彫刻の新羅的要素」という優れた小論があり、この時の南山石佛探訪に示唆される処があった。

 さて、ここでどうしてもご紹介しておかねばならぬ方があった。 この時の訪韓に多大のお世話下さった当時の慶州国立博物館長 ハンビヨンサム韓丙三先生(後のソウル国立博物館長)である。

ご承知の方もあるか知れませんが韓先生は本来考古学の権威者でNHK教育番組で朝鮮半島の考古学講座を暫くご担当頂いたことであった。
更に、若くして京都大学に在席され、先に述べた国立京都博物館の井上先生と同期とのことであった。      

この金勝(こんぜ)山地の狛坂磨崖仏への道は二つある。
 一つはJR琵琶湖線石山駅から、大津市田上桐生辻から山路を約1時間のコースと、草津駅から栗東市の荒張まで車で約40分、そこから約50分名刹金勝寺を経て山上を南下すること徒歩で約40分、いわば渓谷の峡に磨崖石仏を拝することとなる。
 しかし、この起伏する稜線と時間をかけて到達する狛坂磨崖仏への行程こそが、金勝山大菩提寺の「四至」〈しいし〉をたどることと思われる。
 
慶州南山の壮大な石仏群を訪れた際に、石仏もさることながら私に強い印象を与えたのは、南山をめぐる山容とひょろりと曲がりくねった松の疎林が山上まで続くありさまは、まさに金勝山南稜が狛坂谷へ降りる山地に見る山容と酷似しているといって過言ではなかった。

 私はこの地に育ったゆえもあって、少年時代から数え切れぬほどこの道を辿って狛坂を訪れたことであり、この風土の印象が南山を身近なものとさせたことであった。

 さて、ここで話を本論にもどすことにしたい。
 狛坂石仏は、大小二群よりなっている。もっとも注目すべきものは大きい方で、花崗岩の巨石の表面に古様な宣字座〈せんじざ〉に結跏趺座〈けっかふざ〉する如来像を中心とし、その両脇に蓮華座に立つ二菩薩を配している。

主体となる巨石は、6.25mありそこに半肉彫(レリーフ)されている中尊は2.76m、両脇像は各2.37mである。
更に三尊の上方には二組の如来三尊像のほか三躯の菩薩像を彫りだしている。中尊の如来像は、横幅の広いたくましい面相につくられ体躯も堂々とした肉体を表現している。右肩を露にした法衣(納衣)の制も珍しい。両手は胸前で転法輪印のごとき(?)印相を結んでいる。しばしばこの両手は稚拙であると言う説もあるが、逆にたいへん優れているのではなかろうか、転法輪印のような複雑な印を浮彫りで表現しようとした所に無理があるが、それを大胆な形で表している。
また両足を衣の裾の下に交叉させ裳懸風に見えることもいわば古様と見ることができよう。
 左脇侍は右脚を力足とし、左脚をあそばせ右手を胸前においた姿で、左手は第一指と第二指を結び垂下する。面相は中尊と同様横幅広く、髪の毛はみごとな双髻〈そうけい〉に結いあげている。

 中尊同様かなり浅い浮彫りであるが、堂々とした脇侍菩薩像が巧みに表現されている。両足は思い切って足の側面を見せるように表現しているところも、この像に強い立体感を与えている。

 右脇侍は、逆に右手を開いて垂下し左手を胸前にあげている。胸には瓔珞〈ようらく〉をつけている点は古様で、腰裳の複雑に乱れた衣文の表現も巧みであろう。

ここまで稿を進めてくる中で、もう一度この稿の主旨を振りかえってみる時、今ここに数行にわたって述べた狛坂磨崖仏尊像へのきわめて雑な印象は、先にも述べた通り、この山野に育った野人が拝してきた真に率直な印象であって、私に訪韓を示唆下さった諸先学のご見解には遠く及ぶものではない。

ただ毛利、井上、その他先学のご意見の中で、野にある者は野にある者の眼で、狛坂仏と慶州南山仏を拝する時、ふとした視座がひらけることも期待できるとのお奨めによって、冒頭に述べた訪韓が決まった訳で、狛坂石仏尊像の私なりのアウトラインは、これから次回に進めて参りたいと思う。

 韓国慶州、南七仏庵磨崖石仏を中心とする壮大な南山石仏群から受けた印象から、我が国における渡来文化、特に近江の石仏群像に及んだ流れを在野の眼から考えてみるための、あくまでも伏線として今回は狛坂磨崖仏に焦点を置いてみた。

この磨崖佛の造立年代については諸説があって、現在も藤原・平安初・奈良・白鳳などあって、現在も確実な説は定着していない。

 さて、この磨崖佛をたとえば、白鳳期として推定してみる一つの見方として、台座のもっとも下部に、堂々と刻まれている格狭間の形が非常に鋭角的な曲線を持つことです。

一般にも知られる「法隆寺釈迦三尊像台座」や、法隆寺献納宝物(東京国立博物館)の「辛亥年名観音像」などにその共通性が見られる。

 佛像の容貌は鼻の部分が磨滅し全体の感じがかなり損なわれているが、この磨崖佛全体が首が短く、その点でも、前の法隆寺「観音像」に近い像容である。
また中尊や脇侍の「裳」や「天衣」の翻る表現方法等は若干形式的にはなっているものの、中国北斎(六世紀後半)の石佛によく見られるように天衣の翻りを平面的に表現しょうとする表現意識がうかがわれる。

 このように狛坂磨崖佛の様式形態は、これだけでも、天平・平安と言うよりも、むしろ白鳳期の佛像様式の中に置くのが最も自然ではなかろうか。

 この磨崖佛は先にも述べたように、慶洲の石佛と作風が共通することが、諸先輩によって論ぜられながら、それにもかかわらず、この石佛を九世紀頃とされて来た理由は、様式の伝わる時間的経過と、もう一つは、狛坂寺縁起〔大永6年(1526)〕を考慮に入れる文献学上の理由による処が大きい。

 この縁起によれば、かって近江の蒲生郡に居た狛坂長者が所持していた渡来系金銅佛(これは明治初年まで存在したが、今は行方が知れない)を嵯峨天皇に献上、これが後に金勝寺願安により狛坂寺の本尊として永く崇拝されて来た。
ところが、この狛坂寺縁起の中に、不思議なことに、素晴らしい大磨崖石佛のことは一言も触れられていない。

 結論から言へば、平安後期に興福寺の願安が狛坂寺を建立するはるかに以前から大磨崖石佛は恐らく渡来系工人達によって造像され、後世、狛坂寺の客佛とされたものであろう。
 さて、次には「狛坂」の「狛」と言うことであるが、例えば、「日本書紀」欽明天皇六年の条に次ぎの記事がある「是年、高麗大いに乱れて誅殺される者衆し」即ち狛は高麗であり「狛坂」は「高麗坂」であり古代韓国、高句麗の人々と、最も関係の深い道であったと考えられ、更に是だけの巨大な磨崖佛を残すのは技術的にも高度な造形美術関係者が関与していた筈であった。
 さて、古代の我国に高句麗から渡来して来た造形美術関係者として考えられるのは画師達で、「日本書紀」推古天皇十二年九月に「是月に始めて黄書〈きぶみ〉画師・山背画師を定む」とあり、この黄文〈きぶみ〉画師が、高句麗から渡来したことは「新撰姓氏録」に明らかである。更に御承知の高松塚古墳壁画の筆者黄文連本実も、高句麗系の画師とされている。

 このように高句麗から渡来した画師達が各地に集団を作り各地において社会的にも活躍したことであり、これらの画師、画工が佛像の製作にも深く関与したと考えられる。

ところで、これら画師達にとって必要な絵具(顔料)などは、元来大陸から輸入して使っていたと思われるが、わが国において造寺・造佛が急テンポで増大するに従って絵具の国内自給は避けられない問題となり、この要望に応えるため、高句麗系の画師集団の人々が絵具(顔料)の製造、さらには、この原料である天然の鉱物資源を求めて、特に古代における畿内に置いての鉱物資源の産地とされていた湖南山地(田上山→大津)(金勝山→栗東)に足を踏み入れたことは想像に難くない。          

 さて、この稿を終わるにのぞんで、ふたたび私は、韓国東南部の、決して肥沃とはいえない慶洲の山地に、累々とした石佛群を拝した時に、私の貧しい思いにひらめいたことは、佛教の教義とは別に、東南アジア系の、博物学的知識の流伝(るでん)する中で、比較的平地に近い山地に鉱物採掘の地を求めたことは想像できる。

 そこで、この稿の結論と言うには視点が貧しいが、先にも若干触れたが、古代、とくに天平以前の顔料(絵具)の主なものは石灰、白土(はくど)、朱沙、雄黄(ゆうおう)、雌黄(しおう)、金青(こんじょう)、緑青(ろくしょう)その他あるが、そのうち天然産のものは、次のとおり

・黄色系=雌黄・・これは別に鶏 冠石とも呼ばれる。
・緑色系=緑青・・これは別に孔雀石ともいわれる。
・青色系=金青・・これは別に藍銅鉱ともいわれる。

 これらの顔料は、いずれも造寺、造佛や作画に欠くことのできない顔料であるが、この天然産の鉱物を、古代人が求めた場所として都に近い所では、この湖南山地をあげることができ、その中心になったのが、金勝(こんぜ)狛坂から、田上(たなかみ)にかけての山地であったろうと思われる。

 このあたり一帯は、後世から今日にかけても、各種の水晶、雲母(うんぼ)、長石、孔雀石などをはじめとして、更に、本市伊勢落などで、ときおり発見される銅の残滓(ざんさい)「かなくそ」などが二次的な資料として見られることも、副次的な意味あいで、湖南山地の鉱物資源とのかかわりあいが、無くもない。
ともあれ、少なくともこの地域が、緑色系、青色系、赤色系の鉱物顔料の原産地であったことは、ほぼ間違いのないところと断じてよい。

「続日本記(しょくにほんぎ)」文武天皇2年(698)9月28日の条に次ぎの記録がある。「乙酉、令 近江国献 金青」 ( きのとのとり近江国より金を献ぜしむ )  

ここに書かれたように、この近江の国より献ぜしめた「金青」の産地こそ、この田上、金勝の一帯であったと考えて間違いない。
そして古代の国家が絵具の材料を全国的な規模で献上せしめる迄に恐らく都に近いこの辺一帯の山中に、これらの資源を探し求めて生活の場を持ち、道を開いた人たちがいたであろうことは想像できる。

 さらに万葉集巻一にあります「藤原京役民(えだちのたみ)の歌」でも知られるように、藤原京、平城京、東大寺などの建立にともなう膨大な建築用材の供給地が田上、金勝の山地であったことなどから、すでにこれらの活動が始まる以前に、先に述べたような、鉱物採取探索の活動が始まっていたことと思われる。

 また一方考古学の見地からも、金勝谷に多く見られる石棺が、6世紀中ごろの製作と推測されることから、金勝山山麓に、渡来系石工人集団が6世紀頃に生活の場をもっていたことは確実で、この石棺の技法が、韓国慶洲博物館蔵の「南山佛谷谷出土石棺」ときわめて類似していることが学術上報告されており、これは注目すべきことであり、このことは、狛坂磨崖佛の技法が、同じく慶洲石佛と似ていることにつながりを持つが、結論として考えられるのは、右に述べたとおり古代顔料の資源を求めて山深く入りこんだ渡来系技術者の人たちが、狛坂に宗教的霊場として、母国の技法を伝える大磨崖石佛を造立したものと考えられ、その謎めいた容貌が今もわれわれの心を魅きつける。

 結論というわけではないが、この近江古代史で、知られていそうで、意外に忘れられて来た、湖南山地に眼をむけてみる時、義淵、良弁という東南アジア系博物学的知識を縦横に駆使した人たちの姿が浮びあがって来る。
 その後数世紀を経て、織田信長などがこの地に着目した経緯はあるが、これは稿を改めるほかあるまい。 

 高田



       

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