近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


湖南山地をめぐる渡来文化への視座


しばらく「会報」への寄稿を怠っている間に、早くも四〜五年を経て誠に申し訳ない次第。たしかその際、すでに故人となられた白洲正子さんとの若干のかかわりを記しながら、たしか『かくれ里へのこだわり』で、記し残した事柄を、今思い起こしてみる時、勿論狛坂磨崖佛についての補遺もさることながら、この課題は、さらに広く、甲賀・信楽山地から、金勝山地を広く取りこみ、田上、大津、京都、奈良に至るもろもろの渡来文化について、ここでは、出来るだけ視座を拡げて考えてみることにしたい。

 さて、大佛建立に藤原氏は賛成したのか反対したのか。藤原氏の発案か、更には藤原氏いじめの政策か。

 それは皇室を中核として、その周辺に厚く絡みついている佛教者の動きなのか。それとも佛教者の宗教力を巧みに消散せしめ、神祇か佛陀かの、何れかに対する信仰的国家を解体し、藤原氏を指揮者とする律令制度の法治国家に改進せしめんとする官僚派の、一大策動なのか。
 さて、金勝(こんぜ)山系の金勝寺という寺号は金鷲寺(こんしゅじ)という呼び方に基づくものであり、東大寺という寺名が正式には金鷲寺であったという異説の残存することを考え合わしてみると、何やら解明しにくい暗雲が、田上信楽金勝を経て、さらに山城盆地にある和束(わづか)の金胎寺を経て奈良盆地に深い陰影があとを引いている。

 「書紀」をひもとくまでもなく、田上杣や高島山の木材が瀬田川から南都に運ばれ、古代奈良京の造営に大きく影響したことは言うまでもない。

 阿星山金勝寺という古代卜星(ぼくせい)術めいた雄大な寺院が存在したという文献もあるにはあるがどこまで信頼できるかは論外である。
 しかし、どうした訳か、天平以降の、金勝田上を語る何の資料も残っていない。

 しかし傍系の史書などから察するに、古代における金勝寺の勢力は大きなものであったろう。平安時代末頃になって、延暦寺や園城寺の勢力が、湖南東部に及ぶが、その以前の時代に、この一帯は石山寺と相提携して、修験的な佛教の道場であり、多くの信者を集めたと思われる。

それは、この粟太甲賀山地に、今も数多くの国宝、重文級の佛像が現存することによっても察知することが出来る。

中古以来に及んで、山林の伐出しが盛んとなった一面、その後の植林に心を傾けなかったままに、荒れに荒れ、荒れ放題に捨て置かれた時代が続いた。

かくて、平安中期以降、南都興福寺の影響も衰亡して、金勝寺も狛坂寺も、南都北嶺の勢力からは、全く死角となり、全山禿山と化し、明治中期に至るまで、金勝寺、狛坂寺いずれも、数々の佛像を蔵しながら廃寺に近い有様であった。

 第二次世界大戦後、近年ようやく文化財に光があてられるに及んで、人々の関心を呼ぶこととなったが、湖南の地の渡来文化への視座が人々の関心を引くこととなったのは、ここ三十年ぐらいが妥当なところであろう。
 
 (会員  高田)




       

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