近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


「かくれ里」へのこだわり


「近江の狛坂廃寺というところに、美しい麿崖佛があることを私は2、3の友人から聞いていたが、どの辺にあるのか、誰もはっきり教えてくれぬ。教えてくれぬのではなくいえないらしい。それほどやっかいな山奥にあるので、行ってみたいのは山々だが、何かいい機会があるまで私は待つことにした。」(白洲正子「かくれ里」より)
 この何げない書き出しではじまる随筆「かくれ里」が読売文学賞を受けたのは、昭和46年(1971)であったが、私の記憶では恐らく彼女がかくれ里紀行を手がけた冒頭に近く「金勝山をめぐって」の一章が位置していた。
 しかし、この短い書き出しの文章が端的に示すように、金勝―狛坂周辺が、今日もなお、いくばくかの魅力を包みながら近江における仏教文化の中で、埒外と言わぬまでも、研究者以外はいささかの疎遠の感がせぬでもない。

さて、白洲正子は正確に言えば二度金勝を訪れた。一度は草津から金勝谷へ向う通常のコースをたどり、いくつかの佛像を拝して恐らく龍玉山まで辿りついたが、狛坂は断念せざるを得なかった。それから数年を経てふたたび金勝―狛坂を訪れたが、この時は、大津から信楽へ通ずる信楽街道の桐生辻から狛坂詣を果たし、金勝谷を背後から見下ろし、はるかに三上山を望んだという。

さて、その頃、たしか昭和44年(1969)10月、ふとした縁があって白洲正子から一通の封書を受けとった。
昨平成11年2月、新聞紙上で白洲正子の訃報を知り、明治から平成へ流麗な筆致で駆け抜けた「韋駄天お正」(これはアダ名)を、ひとしおなつかしんだ。
ところで白洲正子が私に送ってくれた一文に、彼女の「かくれ里」へのなみなみならぬ想いが込められていたと思う。
もともと、白洲正子は彼女の文筆生活の比較的後半にあたって、近江の山地に残る漂泊の文化に心を寄せている。甲賀(信楽)、湖東(永源寺)、湖北(菅浦)、湖西(葛川)など、彼女のもつ魅力的な筆致で辿っている。そんな中で私にとどいた一文は、今は故人となられた京博の景山春樹氏を通じて、金勝寺の龍王山にまつわる「雨乞い」の様子について、私が詳細に書き送った文への返信であった。

景山春樹氏はご承知のとおり「神道美術」に特異な視野を開いた人であるが、氏の母堂が金勝、東坂の旧家鵜飼氏の出で、景山氏は幼い頃、この「雨乞い」えの印象があったとのことで、私もかって景山氏とこのことについて語った想い出があり、白洲正子への一文がいささか役に立った様であった。
この「雨乞い」行事がまた、意外な形で狛坂をめぐる渡来系文化と接点を持つのではないかと思われる節がある。
さて、その「雨乞い」であるが、私事で恐縮だが、この金勝谷の谷間の寒村に生れて育って、今老年を迎えている私であるが、今となっては恐らくその「雨乞い」行事を記憶している数少ない一人となってしまった。まず、その少年期の記憶に今もあざやかに残る様子から述べてみることにする。
太平洋戦争も後半に突入する昭和16年頃の初夏、金勝谷は近来にない旱魃に見まわれ、数ヶ月一滴の雨もない日が続いたものである。若者の多くは戦争に行き、稲作は老人、女性、子供が守るのが通例となりつつあった。

古来、金勝谷には「金勝の龍王」という民話が伝承されており、恐らく「雨乞い」行事が古くからあって、これがこの民話を生んだものと思われるが、民話の方はのちにふれるとして、行事の方の民俗的な魅力は当時14才ぐらいの少年にとっても忘れられないものであった。       

 白洲正子へは、およそ、次のように「雨乞い」の一部始終を書き送ったように思う。
 『ひでりが続き、田にはそろそろ亀裂が見える7月中頃、村々の重立(オモダ)った人々から「雨乞い」への触(フレ)がとどく。

 さて、とある日の午後、郷村(ゴウソン)の氏神(ウジガミ)大野神社に、およそ200百人前後の村人が参集、ここで、末(マツ)社水分(ミクマリ)社に、降雨祈願の祝詞(ノリト)が奏上される。やや時を待ち、薄暮の頃を見はからって、参加する 人々の手には炬火(タイマツ)が持たれる。約2メートル位の竹の先を裂き、細竹(ササメダケ)と菜種殻(ナタネガラ)を割れ目にはさんで、これを荒縄でしっかりとくくりつけると炬火ができる。これが中世以来、近世にいたる畿内における松明(タイマツ)のほぼ原形と聞く。

やがて、薄暮から初更(ショコウ)の時刻(おそらく午後7時頃)、旧金勝寺(コンショウジ)参 道〈通称七曲り(ナナマガリ)〉約5キロを登り、その途中、通称〈火付 木場(ヒツケコバ)〉で一斉に炬火をともすこととなる。人々は、肩に降りかかる 火の粉を振り払いながら急坂を登るのであるが、ここで、掛け声でもあり唱名(ショウミョウ)でもあり、呪文でもあり、念願とも聞こえるように、「アーメタモ・リュオウヨー・ハッタイリュオウヨー」(雨給え龍王よ・八大龍王よ)と、山に向って、谷に向って、呼びかけるように、また叫ぶように唱(トナ)えながら登って行ったものだった。少年期の私にとって、山や谷に向って唱える村人の声は、決して楽しげなものではなかった。美しいものでもなかった。山の人々独得の、野太い声の、擦(カス)れゆく余韻(ヨイン)が木魂(コダマ)となって谷に消えてゆく、そこに、中世以来の農民の、祈りと、願いと、悲痛な溜息(タメイキ)が聞こえていたのではないかと、今思い返してみる。そしてある時、1キロばかり麓の田んぼから、雨乞いの炬火が、七曲りの坂路を、ウネウネと登りゆく様(サマ)を遠望したことがある。それは、闇黒(アンコク)の夜空に、ゆっくりと登る火龍の印象が残像として今も眼に残る。』

 白洲正子への便りは、凡そそのあたりまでであったと思うが、彼女の印象の中に「雨乞い」のことが残ったことは、意外とも言えるが、私への返信の中に「お手紙の中にあります雨乞ひの木魂(コダマ)のこと目に見えるようにお 知らせ頂き・・・云々」とあることからも、少なからぬ思い入れがあったこととおもっている。
 ところで、この「雨乞い」の後半を述べなくてはならない。この七曲りの山頂を、やや南下した処に、龍王山があり、村人が肩にした炬火は、やがてここに運ばれ、もっとも高い山巓(サンテン)に、うずたかく炬火を井桁(イゲタ)に 積み上げ最後の行事が行なわれる。さて、ここからは、仏法守護の八大龍王の登場で、さきほどの「たいまつ」を積み上げた護摩壇(ゴマダン)の前で、金勝寺の僧が大般若波羅密多経を読誦(ドクショウ)することとなる。ここに見られる ように、深い山、狭い谷に細々と生きて来た民衆の、自然と共生する一大イベント「雨乞い」は、神仏習合、否、それ以前からあったかも知れぬ悲痛で、しかも蠱惑(コワク)的な翳(カゲ)りを、ごく近代まで伝えてきたことは、不思 議と言えば不思議である。

 ちなみに、龍王山は標高600メートル足らずではあるが、山頂の岩場に祀られているのは、日本前史、天地創世神話の速秋津日子、速秋津比売の子、天之水分(ミクマリ)神、いわば水を配する神とされており、岩場をやや降ると「天池(アマイケ)」という水溜があり、かって祠(ホコラ)があったと記憶している 。さて今回、この項は終わりとするが、この龍王山を少し下ると、狛坂(コマサカ)明神趾、さらに下ると狛坂磨崖仏(マガイブツ)に行きつく。
 さて、白洲正子「金勝寺をめぐって」の末尾に、彼女は『狛坂というからには帰化人が領した土地で、朝鮮の景色も、私は知らないがこの辺の岩山に似ているのではないだろうか』と書いている。その後、昭和57(1982)年、私は韓国慶州(ケイシュウ)の南山七仏庵を 尋(タズ)ね、金勝山と酷似した山頂に、壮大な磨崖石仏群を拝したことであった。機会をみて、渡来文化とのか
かわりを探ってみるつもりである。

 (会員  高田)




       

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