近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


近江の古代製鉄について


古くから「近江を制するものは天下を制する。」と言われ、権力者の争奪の的となった近江は、地政学上の好条件を備えた国であるばかりでなく,古代における近畿地方最大の鉄生産国でもありました。




(左図)古墳後期〜奈良時代の製鉄遺跡分布
 (発掘調査済み、穴澤義功より)


現在、滋賀県下には60箇所以上の製鉄遺跡が判っており、一つの遺跡が一つの炉とは限らないので、その製鉄炉となると相当な数にのぼります。(下図 村上英乃助1991より)

考古史学的に見ますと、昭和18年に国学院大学の樋口清之教授が伊吹山麓の調査を実施し報告しましたが、この時確認された遺跡は現在追認されていません。この時、この製鉄が鉄鉱石を原料としているもので、息長氏との関係があるであろう、としています。
昭和42年に京都大学の高福盛氏が、修士論文でマキノ鉱山の地質を調べ、その後、同志社大学の森浩一教授がマキノ町で発掘調査を実施し、「近江の鉄」が大きくクローズアップされ始めました。その後、多くの人達によって湖南や湖西地方の製鉄遺跡が次々と発見されました。(これらについては、滋賀県埋蔵文化財センターの大道和人主任技師らの研究が著しい。)
これらはいずれも鉱石系箱形炉で、奈良時代後半以後東日本で使われる高チタン砂鉄系竪形炉より高さが低く、還元されやすい原料であることが判ります。
地質学的に観ますと、県境部の山を構成しているのは秩父古生層や中生代末か新生層初期にかけて貫入したという花崗岩や斑岩類であります。
平野部に散在している山のうち彦根以北のものは古生層であり、以南のものは花崗岩や火成岩であります。盆地内の丘陵部は主に新生代後期の段丘層で、県内は古生層、中生代末の花崗岩類、新生代の地層からできています。

鉱物は、花崗岩中のベグマイト鉱物と接触帯に見られる接触鉱物が主なものであります。
ここの鉄鉱床は、古生代とその後に貫入した花崗岩との接触部にできた接触交代鉱床で、接触交代鉱床では、マグマ中のハロゲン化物などを含んだ揮発成分が、石灰岩のような反応し易い岩石に接すると(既に平安初期の『大同類聚方〈ダイドウルイジュホウ〉』巻7に「石灰は近江国に産する。」とある。)置換反応によって、金、銅、鉄などを含む塊状の鉱床を造ることが知られています。従って、接触交代鉱床には鉄鉱床が存在する可能性が高く、マキノ町、西浅井町、石部町など多くの町で磁鉄鉱床の存在が知られています。

県内各地にあるマンガン鉱床もこの範疇に入れる研究者がいますが、鉄鉱床の核分裂反応の結果生成したとするP・フュゼー教授の説も無視できません。マンガン鉱床の存在する所が丹生〈ニュウ〉(朱または鉄朱を生む所)竜尾山〈タツオヤマ〉《近江町》、太尾山〈フトオヤマ〉《米原町・浅井町》(尾山はオロチ伝説のある山)など鉄に関わる様な地名であることから推察して、後者と考えた方が面白そうです。

万葉集には、「まがね吹く丹生のま朱〈ソホ〉の色に出〈デ〉て言わなくのみぞ我〈ア〉が恋ふらくは。」。夫木〈フウボク〉和歌集には、「まがね吹く丹生のま朱の色にだに、いかにや人のあわれとも見ん。」など、丹生の枕詞に鉄製錬を意味する「まかね吹く」を使っています。県内に二箇所ある丹生には、今でも良質の鉄朱(紅殻―酸化第二鉄)が採れます。

史料的に観ますと、『日本書紀』巻27、天智天皇9年(670年)「是歳〈コトシ〉、水碓〈ミズウス〉を造りて冶鉄〈カネワカ〉す。」と記されており、特記すべき技術の進歩があったことを示しています。
 これはダムを作って水車を動かし、この水碓によって鉄鉱石を粉砕し製錬能率を向上したものと思われます。(異説もあります。)これは天智天皇陵の近くの大岩遺跡や北牧野遺跡《マキノ町牧野》で見られます。(下図)                                     
大岩遺跡(京都山科)製鉄所跡と貯水用堤:中井正章1984より

古代の近江は、近畿地方最大の鉄生産国であり、60個所以上の遺跡が残っています。これらが古代の政治に大きく影響を与えています。

663年の白村江の戦で大敗した日本は、(一万人の兵が沈んだと記され、一人5キログラムの鉄を着けていたとすると)50トンの鉄を失ったと思われますので、これを回復するために鉄を大増産する必要があり、技術の改良がおこなわれたと考えられます。

    源内峠遺跡No.4炉               野路小野山遺跡No.7炉
 

源内峠遺跡《大津市瀬田南大萱町》、野路小野山遺跡《草津市野路町》など湖南地方の多くの遺跡はいずれも大規模で、国家権力が介入しなければ築き得なかったと考えられ、年代も一致いたします。(当時の鉄生産量は全国で年間30トン程度と推定されていますので、この敗戦が如何に大打撃であったかがわかります。)

『続日本紀』では、巻1、文武2年(698年)「近江国に令して金青〈コンゼ〉を献ぜしむ。」とあり、この金青は赤鉄鉱(金 〈コンゼ〉)のことで、甲賀の金勝〈コンゼ〉山より採取されたものであると言われています。今でもこの付近には鉄鉱石が露出しています。(異説もあります。)
巻3、大宝3年(703年)「四品志紀親王〈シホンシキノミコ〉に近江国の鉄穴〈カンナ〉を賜う。」とあり、鉄鉱山を賜った記録がありますが、何処の鉄穴か判っていません。
巻5、元明天皇の和銅6年(713年)「近江から慈石を輸納せしむ。」とあり、磁石(当時は金属磁石はなく、磁鉄鉱磁石のこと)が献上されています。(慈石が磁石であることは『陳蔵器本草拾遺』に記された「磁石は毛鉄の母也、鉄を取ることあたかも母が子を招く如し、因って(母性の慈愛に例え)慈石の文字を当てる。」からわかります。)
巻14、天平14年(742年)に「近江国司に令して、有勢之家〈ユウセイノイエ〉が鉄穴を専有し貧賤の民に採取させないことを禁ずる。」の文があり、鉄鉱山をめぐる争いを記しています。
しかし天平18年(745年)当時の近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は既に鉄穴を独占していたようで、技術者を集める「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
巻24、天平宝字6年(762年)「大師〈ダイシ〉藤原恵美押勝に近江国浅井・高嶋二郡の鉄穴〈カンナ〉を各一処賜う。」とありますが、これは淳仁天皇の追認のようです。

マキノ町、西浅井町には多くの製鉄遺跡があり年代も一致していますので、これに関係があると思われます。西浅井町には鉄穴〈ジンツボ〉という地名もあります。
製鉄遺跡を年代別に分類してみますと、今津町の甲塚〈カブトヅカ〉古墳《今津町饗庭野丘陵》、東谷〈ヒガシダニ〉遺跡《今津町大供》には長さ3メートル、幅1.2メートル、厚さ30センチメートルのケラが発見されており、5世紀に鉄生産が開始されたと報告されていますが、疑問視されます。

木之本町の古橋遺跡《木之本町古橋》は6世紀のものと言われています。(ここの鉄滓は、全鉄分が多く、作業温度が低かったと考えられます。)

彦根市では平成8年5月に鳥居本の中山でゴミ処理場建設中に製鉄遺跡が発見され、5世紀のものと一部マスコミが報道しましたが、これは10世紀より古いが5・6世紀ではないことが判りました。(NHKは少し遅れましたが正確に伝えました。)

大津市の南郷桜峠(南郷遺跡)《南郷町1丁目》、源内峠《瀬田南大萱町》その他の湖南地方のものは殆どが7世紀で、近江朝時代と一致します。湖西地方のものは8世紀のものが多く、奈良時代に当たります。

9世紀に入ると近江の製鉄は急激に衰退し、僅かに木津〈コウツ〉遺跡《新旭町饗庭》と山田地蔵谷遺跡《志賀町北小松》などを残すのみとなってしまいます。
これは、桓武天皇の時代になり蝦夷〈エミシ〉征伐の度重なる失敗が(『続日本紀』巻40)武器の差である(蕨手刀〈ワラビテトウ〉には大和直刀〈ヤマトチョクトウ〉は刃が立たなかった。)ことを覚った朝廷が、坂上田村麿による硬軟両作戦の結果、アテルイを捕らえるとともに蝦夷の技術を導入し、鉱石製鉄の限界を感じ、近江製鉄を廃止し、砂鉄系箱形製鉄である播磨製鉄の発展を促したためと伝えられています。(平成8年2月8日のNHKテレビ・ライバル日本史より)

古代の政権に大きな影響を与えた近江の製鉄も、鉱石製鉄の限界がわかりはじめ、砂鉄製鉄の勃興と共に衰えて行きます。
三関〈サンカン〉の廃止による物資の交流も運賃の差により東北の鉄が都に入ることは少なかった様です。「延喜式」主税上〈シュゼイノジョウ〉の「諸国運漕穀物功賃」には、一駄で運ぶ鉄は30挺〈チョウ〉(約60kg)で、運賃が、尾張からだと21束〈ソク〉、常陸が100束、陸奥が210束と記されています。1束は米3キログラム位ですから、これでは陸奥からは買えないでしょう。
海路ならば、博多から難波まで米50石運ぶ場合、船使用料250束、人件費140束、途中の飲食費30束を加えて420束で、陸路に比して1桁安くなっています。

正倉院に蕨手刀〈ワラビテトウ〉が一振り残されいますが、これは鋒先両刃無反刀〈キッサキハモロハムソリトウ〉で、蝦夷〈エミシ〉のものとは明らかに異なり、大和直刀〈ヤマトチョクトウ〉の形式を残しています。

鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度〜1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度〜1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山〈キンショウサン〉《美濃赤阪》の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれています。岐阜県垂井〈タルイ〉町の南宮〈ナングウ〉神社には、そのときの製法で造った藤原兼正( 竜子〈エンリュウシ〉)氏作の刀が御神体として納められています。(同町の表佐〈オサ〉《垂井町表佐》には通訳が多数宿泊していたという言い伝えがあります。地名の起源か?)当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれています。

継体天皇といえば、6世紀初頭、播磨王N・朝の断絶に際して越前の武生から大和に進出する際、三尾氏、坂田氏、息長氏、和珥〈ワニ〉氏など近江の豪族達の女を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出路を確保するとともに、その鉄資源の確保をねらっています。
その進出が決して平和のうちに行われたものでないことは、継体天皇の死と同時に皇太子、皇子が死んだという「百済本記」(日本書紀にも取り上げられています)からも推察されます。出身地が当時鉄の採れない越前であるにもかかわらず、武生〈タケフ〉(武器を生む処)、錆江〈サビエ〉(現在は鯖江〈サバエ〉となっていますが錆だまり、即ち鉄を加工・研磨した処)などの地名が殊更に続くのは、鉄を外部から持ってきたことを示すものでしょう。原料がどこから来ているかということは、日本列島が四つのプレートの上にあり、各プレートの成分に差があるので、ルビジウムゃストロンチウムの比を測定することで判定できます。
プレートのせめぎあいが地震の原因となっていますが、考古学には大きなメリットです。(奈良教育大学三辻利一〈リイチ〉教授は、前任の東北大学金属材料研究所以来10数年にわたり全国を4000箇所に分けて分析し、産地判定法を完成させました。)

年代は、同時に出土した土器などで推定する方法や、木の年輪で推定しますが、誤りも多く、近年はシカゴ大学のリビー教授が開発した放射性炭素測定法が有力です。
(同氏は、これによりノーベル化学賞を受けた。)
今のところ1000年でプラスマイナス30年程度の誤差がありますが、北京大学の陳鉄梅〈チンチェメイ〉教授は加速器を使って漢(3世紀以前)以降の鉄器を多数分析しており、最も新しいもので5世紀(南北朝時代)の洛陽の鉄塊を測定しています。
(元時代のものも測定していますが、石炭製鉄になっていて、石炭生成の年代が出て実際より古い値を与えることとなり使用できなくなります。)もっと精度が向上し10年位の誤差になれば日本の考古学も大いに変わるでしょう

(非鉄金属腐蝕センター代表)




       

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