近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告

上豊浦湖見堂の宝篋印塔について


1.はじめに

 
私の住まいしている安土町上豊浦には、四つの「薬師堂とその講」があり、その一つに「湖見堂」(写真-右下)がある。

因に、私は湖見堂と地続きに住みながらJRを越えた上手の「横辻堂」の講員である。これらは、それぞれどういう家の組合せで、いつ頃に講が成り立っているのかについては知りたいと思うのだが不明である。

四つの講のうち湖見堂は「八日堂」と共に立派な堂舎と庫裏がある。
湖見堂の庫裏には、一昨年まで堂守を兼ねた借家人が居住されていたが、それ以後は無住となり、借家人が居住されていた時分は、遠慮もあってあまり境内を詮索することは無かったが、無住となった機会に講員の皆さんが出仕され境内整備をされた結果『宝篋印塔の笠部分』と『相輪と想定される部分』が出てきて、塔身や基壇は不明ながら笠部分は野面石の上に安置された。(写真-下)
         
 日常それを何となく観察し、当倶楽部から池内順一郎氏の講演集を頂戴し拝読するうちに隅飾突起が真っすぐに立っていることに気付き、「これはひょっとしたら古いのではないか」と興味をもち素人ながら調べてみた結果を報告したい。

2.湖見堂の由来

 湖見堂は、もともと安土山に鎮座していたものを信長築城の際に、現在地に移されたという言い伝えは聞いているが、いつ、だれが、どういう経過でここに移築したのか、その史実は詳らかでない。
 しかし、現在薬師堂の右手に屋根形の説明板が建てられ、つぎのとおり記述され、移築の事実は窺える。

 木造薬師如来立像(湖見堂)
 「安土町指定文化財」
 この仏像は、もと安土山の薬師平というところにあったと伝えられ、現在は湖見堂という小堂に  十数人からなる「講」の人々によって守られている。檜材の一本造りで彫眼丸くふっくらとした顔  の口もと、顎のあたりの肉付きは良いが、頬は扁平の感がある。 像高は九七.五センチメート   ル、鎌倉時代の製作と考えられ、安土城が築かれる以前の安土山の歴史を知る上で貴重な資  料となっている。   安土町教育委員会



それでは、「薬師平とはどこか」について調べてみると、『歴史教本』昭和51年8月号P185に「安土ものしり百科」の記事中「薬師平」の欄につぎのように記されている。

    八角平の北方にある小丘で、600uほどの面積をもつ屋敷跡がある。
    この屋敷跡より南に通じる通路の両側には階段状に蔵屋敷がある。
    ここからは八角平や搦手口、百々橋口などに道が通じており、安土
    城北方の中枢であったことが知られる。薬師平の名は、もとここに
    薬師如来を本尊とする寺(湖見堂)があったためという。

安土城は、築城が始まったのが天正4年(1576)正月、完成が天正7年(1579)で、その3年後の天正10年(1582)6月15日には焼失したという運命の城である。したがって安土築城に際し、天正4年以前に湖見堂は移転されたと推定できるが、それが現在の湖見堂かということについては、4世紀余というあまりにも時間的経過が長すぎ確証はできない。
 しかし、秋田裕毅著「織田信長と安土城」の安土山地名分布図によると天主の北約5百mに「薬師平」が今も実在することが確かである。

3.石造文化財

石造文化財といわれるものには、層塔、宝塔、多宝塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、石仏、石灯籠、石室、水盤などその種類はいろいろある。そしてこれらの分布は、全国的には京都、奈良、に次いで滋賀がベスト3で、滋賀県のなかでは湖東地域に集中している。池内順一郎氏によれば滋賀県における鎌倉時代の石造文化財件数は(下表)のとおりで、全体92点のうち宝塔が22点、宝篋印塔が38点とダントツに多いのが特徴であると述べられている。

 4.宝篋印塔 

宝篋印塔は、過去現在未来にわたる緒仏の全身舎利を奉蔵するため「宝篋印陀羅尼経」を収めた供養塔のことをいい鎌倉中期頃から造立され、その形は基本的には
基檀上に、基礎、塔身、笠、相輪なり、塔身の四面に梵字が彫られている。(図1)
宝篋印塔は、時代とともに形が変化し、概ねつぎのような特徴がある。(図2)

   
     (図1)                               (図2)

@ 鎌倉時代→隅飾突起が直立し、反花の彫りが重厚。相輪がこまかい。
A室町時代→隅飾突起がだんだん反り、伏鉢が大きくなる。
B江戸時代→隅飾突起が反り返り開いて、請花、伏鉢は彫刻が多い。
そしてこれらは山東町清滝の清滝寺(徳源院)に近江源氏の一つである京極家代々の宝篋印塔が上下二段に30数基祀られており、その造立年代から実証できる。

因みに佐々木氏は、ご承知のとおり幾多の盛衰を繰り返しながらも織田信長の侵攻に至るまで、鎌倉、室町の時代を通じて約400年間近江の中世史の主役の一端を担い、そななかで京極氏は、佐々木信綱の四男氏信が仁智2年(1241)に庶子家として京極氏を名乗り近江の北部に君臨し、
徳源院を菩提寺としたものである。

        


以上の予備知識のもとに実物を調べてみると宝篋印塔の笠部分は上の写真のとおり隅飾突起が欠けており保存状態はよろしくない。それでもまだ最も原型に近い北面の部分(写真左)を、講の管理者の了解を得て計測してみたところ下図のとおりである。

また、相輪部分にについても下の写真のとおりで、宝珠、請花と九輪の上半分で、残念ながら下の部分がない。
これらの状況をもとに素人ながら推論すると、欠けてはいるが隅飾突起は少し反っていて(図2)から「鎌倉時代」に相当すると思われる。

また相輪部分について、宝珠は図とはぴったりいかないが、重厚で、九輪の溝も浅く素朴さ加減から鎌倉時代相当ではないかと推定される。

ただ、今回対象にした宝篋印塔は不完全な形であり、前記したとおり湖見堂は、もともと安土山にあったのを安土城築城時に移転したという事実から、現在地に
@初めから完全な形の宝篋印塔があったのか
A移転時にすでに不完全であったのか
Bあるいは移転後に九輪下部や塔身、基壇が紛失したのか
等々4世紀余の経過があり、その歴史は分からない。                                                               
しかし、ご本尊の「木造薬師如来立像」は、平安末期から鎌倉時代初頭にかけての作とされ、前記のとおり町文化財に指定されていることから類推すると、この宝篋印塔が「鎌倉時代に近い」と判定するのに無理はないと思考する。

5.あとがき
私は湖見堂の地続きに暮らし、ふとした機会から転がっている石像文化財を見て、興味本位に調べるうちに『これはただ事でない』と気がつき、この一文をまとめた。とはいうものの私の力量では解明する知識もなく参考図書を俄かにあさった結果の独断的結論であって、真実は専門家に鑑定して貰わないと分からないと自覚している。

しかし、名所古跡ならいざ知らず田舎の一「堂」に存在していた宝篋印塔の一部について、その歴史を探索するうちに、"これだけの歴史的遺産"があるということに気付き、はなはだ僭越ながらこの事を披露し、その謂れをもっと深く探求し、適切な保存に努め郷土の遺産として後世に言い伝えていきたいという心境である。
 
いづれにしても、湖見堂の宝篋印塔は石なるが故に一部損傷があるものの原型が保たれており、これを機会に、各所に点在する各種の石像文化財を探索するのも面白いなぁと気がついたところで、今後、先輩皆さまのご指導をお願いする次第である。

【参考引用資料】
・池内順一郎 講演録「石像美術の見方」:2002年9月 サンライズ印刷
・井上光貞監修 「図説 歴史散歩事典」 :1992年1月 且R川出版社
・西村清雄編 「佐々木京極氏と近江清滝寺」:昭和60年7月 椛ラ山堂
・「歴史読本」 昭和51年8月号 :昭和51年8月1日 叶V人物往来社
・ 秋田裕毅著 「織田信長と安土城」 :1990年9月1日 創元社

                                          (会員  糠)



       

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