近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


     宇佐山城
    (その城跡と城主について)


私の住む大津市内には「滋賀県中近世城郭分布地図」によると八十九ケ所もの城跡がある。その中でも戦国史の流れに大きな変化を与えた城は、関ヶ原の戦いで東軍勝利への一役を担った京極高次の大津城と安土城以前に本格的城郭を築き、後に本能寺の変を起した明智光秀の坂本城が挙げられる。しかしこれらの上流に、前二城に劣らず、史乘に影響を与えた、森可成の宇佐山城が在る事を忘れてはならない。
宇佐山城は天下布武を図る信長が、近江に進出し、足利義昭を奉じて上洛を果たした永禄11年9月以降、畿内平定と越前征討の拠点として寵臣の森三左衛門可成に築かせた城である。
 
最近、城郭に関するシンポジウムで、宇佐山城の名が聞こえて来るように成って来た事は城郭愛好者として喜ばしい至第である。宇佐山城跡は大津市錦織町の宇佐山(336m)山頂にある。城跡へは、近江神宮の真裏山麓に鎮座する宇佐八幡宮の北側にある山道を登る。

因みに、宇佐八幡宮は、冶暦元年(1065)に錦織庄に居を構えていた源頼義(八幡太郎義家の父)が勧請したものであると伝えられている。それから約500年後にその末裔である森可成が宇佐山に城を築いた奇縁に感慨を覚える。山道は多年の侵蝕によって変形している。

大手門に通じていたという九十九折の大手筋は登る途中で分からなくなってしまった。山頂に近い急な斜面が手前に見えた所に、城郭の石積に用いられたと思える形の整った大小の石が撒かれた様に倒木や落葉の陰に多数見られた。急斜面を這い登ると山頂の平坦地に出られた。「滋賀県教育委員会宇佐山城発掘調査」の図面を見て本丸跡の平坦地であると知る。

宇佐山城の曲輪は山の地勢を利用して南北に長く築かれている。曲輪は北から三の丸、本丸、二の丸という構成になっている。


本丸跡は放送局の送受信施設が建ち、雑木もなく比較的見通しよく整理されている。一説によれば、この辺りに本丸殿舎があったと云う。本丸曲輪の遺構の一つである大手門跡が、その南東端にあるのでそちらに向う。
曲輪は二分されていたらしく、殿舎跡の平坦地と大手門跡への平坦地の中間辺りで、石組の一部が地表に露出しているのが見られ、そこでは石段を二、三段下る程の高低があった。

大手門跡は雑木に蓋われていて確認することは不可能であった。そこから地続きの二の丸は目の前であるが、3m程の落差がある斜面を道がないので滑り降りた。恐らくこの辺りには石垣が埋もれているに違 いない。

二の丸曲輪の遺構の中で最も興味を持っていた地掘りの貯水槽は土に埋もれているのか見付けられず残念であった。
木々の間を縫いながら南端まで行くと急に展望がきき、そこから先は尾根が南へと下りながら続いている。この尾根伝いに抜道があったと推測されている。

この場所から南西方向に山中越の道路が見え、南東に目をやると眼下に大津の街が広がり、その彼方に小関越、逢坂越が望め、やや北に膳所と瀬田辺りが見渡せる。二の丸曲輪は湖南地域の街道を監視するのに最適の位置が選ばれている。
又以外に東山連邦が近くに感ぜられ、信長の意向に副う地選の見事な城郭であることが実感でき期待以上の収穫があった。

二の丸曲輪から再び本丸曲輪に戻り、その北端から人工的に掘られて造ったと思える急斜面に附く道を下った。9米程下った所は本丸曲輪と三の丸曲輪を隔てている小さな鞍部(堀切)であった。堀切は東西に向かって開いており、東は琵琶湖方面へ抜ける道が設けられており西へは現在も残る搦手道に繋がっている。鞍部北側の斜面を3m程登ると雑木林の三の丸曲輪に出る。

三の丸曲輪は北東方向の湖岸沿を走る西近江路の唐崎や下坂本の街々を観望することが出来、更に北西には比叡山延暦寺を目前に見据えられる素晴らしい縄張である。この周到な縄張は、歴戦の智将可成ならではとの思いを抱きつつ曲輪を後に、二の丸曲輪の東側斜面に残る石垣を探す。この石垣は、遺構の中でも最も往時の息吹を感じさせてくれるものであった。
四百数十年に亘る風雪によって表面は丸味を帯びた野面積の石垣であるが、一つ一つの石は苔むして、恰も髭面の武者達が城を死守せんと組をなして構えている姿を想像させる雰囲気を醸し出していた。宇佐山城の築造年代は不明確であるが永禄13年(1570)3月の奈良興福寺多聞院の僧、英俊の日記によれば、英俊は比叡山と日吉大社を訪れて南下、唐崎にて泊る。

翌日に三井寺(円城寺)から大津へ向かう予定であったが、その途中、山中越と逢坂越を封鎖して新道が造られ検閲がなされていたので、目的地には行かなかったとある。又信長の家臣森可成が堅固な城を築いていると列記している。この城こそ、記述の場所から宇佐山城である事は間違いない。

築城が永禄13年3月以前に着手されていたとすれば、池選や縄張は更にそれ以前に為されていたものと推察できる。「信長公記」を辿ると築城のことは記されていないが、永禄12年10月、信長は将軍義昭との対立から岐阜へ帰る。翌年正月、義昭との和解が成立し2月に上洛する。4月に上洛の催促に応じなかった朝倉義景征伐のため越前へ出陣している。

以上の事柄から戦略上の城郭を必要と考えた信長は、京都に近く、近江と越前を睨む適地として宇佐山を選び森可成に築城を命じたのは遅くとも永禄13年正月と考えられる。築城が完成していた4月の越前征伐は浅井長政の離反によって失敗し信長は態勢立直しのため5月に岐阜へ帰る。その途中宇佐山城に逗留し可成を城主に任じて出立している。

城主となった森可成の家は、源義家(八幡太郎)の六男義隆を祖とする歴とした源氏の嫡流で可成は16代目として大永3年(1523)美濃に生まれる。
長じて守護土岐氏に仕え、後に斎藤氏の客分となり、道三の死後天文21年(1552)信長の懇望を受けて家臣となる。その後信長の寵臣として永禄2年(1559)の尾張統一まで数々の戦功を立て翌年5月に桶狭間の戦があるが、それ以前から今川方に謀略の手を打っていた信長の戦略を補う重要な役割をも果たしている。

信長の可成に対する信頼の厚さは、永禄8年(1565)に織田家の宿将柴田勝家やその他の武将に先んじて美濃兼山に七万石を与え領主とする破格の待遇をしていることで分る。
その後永禄11年(1568)9月には信長の上洛に従い、翌12年8月には南伊勢の北畠具教討伐に参加、大河内城を包囲した東に布陣している。
元亀元年(1570年)5月、宇佐山城主に任ぜられた翌月に姉川の合戦があり、可成は織田軍の第5陣にあって朝倉、浅井軍と対峙する。初戦は浅井軍の突破を許したが、可成陣の踏ん張りによって織田軍の崩れを防ぎ、織田連合の家康軍の攻撃もあって朝倉、浅井軍は乱れて敗退した。
辛らくも戦勝した織田連合軍は、朝倉浅井連合軍を北近江に封ずることが出来た。元亀元年8月、摂津に石山本願寺一揆と三好三人衆討伐のため出陣していた信長の背後を突いて、朝倉浅井連合軍が坂本に進出して来た。

同年9月所謂坂本の戦が起る。その時可成は摂津の福島野田方面に陣を構えていた。
9月16日、急報を受けた可成は千ばかりの手勢を率いて宇佐山城に戻る。帰城した可成は半数の手勢をもって敵の先兵を蹴散らしたものの19日になって敵の本隊3万が進出して来た。
宇佐山城の兵力は、京都から救援に駆けつけた織田信冶(信長の弟)と青地茂網の兵を合わせて2千余りであった。20日、可成は3百ばかりを城に残して、下阪本に討って出たが衆寡敵せず、三将共々討ち死した。可成の首は浅井の家臣石田千蔵によって取られた。

遺体は比叡辻の聖衆来迎寺の真雄上人によって手厚く葬られた。

一方、宇佐山城は端城を陥されたものの本城は可成の家臣である武藤兼友と各務元正の配下城兵達の頑強な防戦によって最後まで陥ちずに持ち堪えた。
摂津より戻った信長は24日京都から軍勢を率いて逢坂越を通り、下阪本に布陣した。
戦局が膠着状態になった頃、本陣を宇佐山城に移した。

10月下旬、木下藤吉郎と丹波長秀が宇佐山城の信長の安否を気這って勢多方面から駆けつけて来るのを信長は城から見ていたと「信長公記」に記述している。

信長は戦いの長期化を不利とみて和睦を図り、朝廷と幕府に働きかけると共に、独自に六角承禎との和睦を成立させたのは11月であった。全ての和睦が成立する12月中旬までに、調停後の朝臣や幕臣、それに政僧達が宇佐山城の信長を尋ねている。
又六角承禎も登城している。

元亀2年(1571)正月、吉田兼見卿の父、兼在が明智光秀を宇佐山城に尋ねたと「兼見卿記」に記述されており、宇佐山城主に明智光秀が、可成に引き継ぎ任ぜられていたことになる。光秀は山門焼き打ちまで宇佐山城を守り、元亀2年12月に志賀郡の領主として築城中の坂本城に入った。
元亀3年(1572)正月、兼見卿は普請中の坂本城に光秀を見舞ったと記述しており、既にこの頃宇佐山城は役目を果たして幕を閉じていた。
宇佐山城は信長にとっても、桶狭間の戦いに匹敵する危機を元亀元年に迎え最も苦難の時期を宇佐山城中に於いて過ごし、これを乗り越えた忘れる事の出来ない城であったに違いない。

これ程の役目を果たした宇佐山城が馴染みの薄いものとなった理由を考えると、可成が信長の天下布武達成までに戦死したこと、宇佐山城主を引き継いだ光秀が本能寺の変を起こしたことが浮かぶ。
因みに森家の家伝書によれば、天正10年3月(本能寺の変の3ヶ月前)に可成の三男である蘭丸(長定又は成利)が信長より岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を賜った際、蘭丸は信長に「父可成の戦死の地でもありますので出来ますれば坂本城を賜りとう御座います」と云ったと伝えている。

何れにしても宇佐山城は大津市内に唯一遺された織田信長と森可成それに明智光秀由来の貴重な城郭である。
この城郭を歴史的文化遺産と指定し、市民の親しめる自然豊かな史跡公園とならんことを願っている。

  (会員 首村)

       



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