近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


後北条氏の城〜山中城跡〜



少し古くなって恐縮だが、一昨年関東を訪れる機会があったのでその帰途に表題の山中城跡を見学した。

秀吉の北条攻めで前線基地として登場するので既にご存知の方がいると思うが、安土城考古博物館の城郭展示で、“土で成る城”のモデル展示に採用されており、一度この目で確かめたいと思い現地を訪れたのでその概要を報告する。

1.概要
山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に北条氏康により築城された。
北条氏の本拠地である小田原から箱根を越えて三島に下る途中にあり、西の防衛を担う最重要拠点で、城は箱根山の自然の地形を巧みに取り入れ、江戸時代の東海道(旧箱根街道・以下箱根街道)を挟むように造られた。

その後、天正17年(1589)秀吉と不仲になった北条氏政は、小田原攻めに備えて急遽堀や出丸等の改修に着手した。
しかし翌天正18年3月29日、改修が未完成のまま、4万とも7万ともいわれる秀吉軍の総攻撃を受けた。対する北条軍は約四千で、必死の防戦もかいなく圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられている。

2.現状
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被覆の上に芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されている。

                   現地 案内図より

非常に見やすい状態ではあるが、反面芝生の公園といってよい状態で、城郭遺跡をこんな形で保存してよいのかと疑うような状況でもある。

幸い、訪れたのは3月上旬で芝生が枯れ、土砂地と同色に近い状態であったので、北条氏の城郭を体験できた。


ただ、箱根街道とは別に国道1号線が縦断しておりだいざき岱崎出丸と主郭部である三の丸の間は残念ながら壊されているようだった。

3.構造
山中城の位置関係は、小田原から箱根を越え三島側に少し下った地点にあり、当然敵は三島方面から攻めてくる想定で造られている。

したがって、小田原側で箱根街道から少し西側に入ったところに本丸が設けられ、その北側に少し高まった台形があり、天守台とされている。本丸の回りには、北側(最小田原側)に北の丸、西側に二の丸(北条丸とも)、二つの池を隔てて南側に三の丸が配置されている。

二の丸から西側に尾根が張出していて、ここを防衛するため西の丸、西櫓が設けられている。この二つの曲輪の回りには、北条氏の特徴である障子堀、畝堀が幾重にも設けられて厳重な防衛を布いている。

三の丸と称される曲輪は箱根街道に面してるが、国道、観光用の広場や公民館などが建てられていて遺構が破壊されているようだ。中央には落城時に戦死した豊臣方、北条方の武将の墓が設けられている。

三の丸と箱根街道を隔てた三島側の尾根上には岱崎出丸が街道に沿って細長く、上方から見下ろすように設けられている。現在、旧街道が残されており石畳も復元されている。

4.縄張りの特徴
秀吉軍に加わり、山中城を攻めたつもりでその縄張りの特徴を眺めてみる。

@岱崎出丸
 ここはなんといっても、箱根街道側の長大な畝掘りがあり、その上部の曲輪は比較的低い土塁が目立つ。


                  岱崎出丸の畝堀(左下を旧街道が通る)

これは、城兵が土塁の上に立って戦闘を行なうのではなく、土塁を直接胸壁(遮蔽物)として使用し、幅広の堀で足止めした敵に城内から射撃を加えるためで、戦国末期の東国における傾向のようである。
西国から攻めて来る軍勢を上から叩こうとする意図がうかがえる曲輪である。

A二の丸
 三の丸から二の丸に向うのには、両側を土塁で挟まれた、緩くカーブを描く通路を40〜50メートル進む必要がある。


          三の丸から二の丸に向かう(正面に櫓台、右の折れると二の丸がある)


この間は側面からの攻撃にさらされ、行く先が見えない構えである。ようやく先が見えたと思ったら、上方に櫓台があり、二の丸に入るには櫓台の下を経て右手に折れないと入れない。
 
横矢を十分意識していることがわかる。また、ここを左手に折れると、帯曲輪を経て西の丸に至るが二の丸橋(木橋)が架かっていて、落とされたら堀に阻まれる。

 二の丸は、北条丸とも称されている。東側の本丸と畝堀で隔てられ本丸西橋(木橋)で結ばれている。本丸と併せて中枢をなす郭といえる。

B本丸
 北東の隅に方形の高まりがあり天守台とされている。北側には本丸北橋(木橋)で結ばれた北の丸、南側には階段状に下がった曲輪が二段あり、それぞれ兵糧蔵、弾薬庫と称されている。

各曲輪は土塁を備えている。東側は国道が通っているので遺構としては完全ではないが畝掘りで囲まれている。

C西の丸・西櫓
 尾根伝いに攻められるのに備え、先端から西櫓・次に西の丸が構えている。先端の帯曲輪に立つと、西櫓の三方にめぐらされた畝堀が目前に迫る。


               西櫓を囲む畝堀(左が西櫓,手前が帯曲輪)

堀は8本の畝がほぼ等間隔で配され、堀底から手前の帯曲輪まで約2メートル、向いの西櫓までは約9メートル近くの高さがある。

西櫓を突破したとしても、西の丸の間には障子堀が控えている。堀幅はさらに広く、横移動を完全に封じられ堀の枡の中で身動きが取れなくなるであろう。


               西櫓と西の丸の間の障子堀(左が西の丸、右が西櫓)

各曲輪も低い土塁で囲われているので、障子堀内で身動きの取れない敵兵を撃つ事は容易である。両曲輪の畝堀・障子堀は後北条氏築城の特徴が出来て感激した次第である。

Dまとめ
全体的にめぐらされている畝堀と西の丸の障子堀が最大の特徴で、西日本では見られなく、一見の価値があると思う。秀吉軍が攻めてくるのに備え改修中であったと伝えられていて、さらに何らかの防御施設の工事を行なっていたのであろが、既にこれだけの備えがありながら大軍の前には成す術がなかった。

後北条氏の支城も忍城のように抵抗をした城もあったが、八王子城、滝山城をはじめ多くの城が大軍により陥落している。中世の山城の限界を示しているのではなかろうか。
次回はその二として小田原攻めのための石垣城と小田原城の旧蹟を報告したい。

5.その他
 ○ 全体の見取り図は読めないと思います。三島市のホームページの観光関連から、パンフレットのダウンロードが可能です。必要なら私に連絡下さい。

 ○ 城跡への道
   ・車の場合は、三島から国道1号線で箱根方面に向いますと約15〜20分
   ・バスの場合は、JR三島駅から元箱根方面行き東海バス「山中城跡」下車
           ただし、本数が少ないので要注意
○参考資料
  三島観光協会発行 山中城跡パンフレット
  西股 総生  『「城取り」の軍事学』  2013 学研パブリッシング
  加藤 理文
  中井 均 共著 『静岡の山城 ベスト50を歩く』 2011 サンライズ社


                                                                 (日吉)



       
      

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