近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告

 特別寄稿:
   県立大学人間文化学部
   准教授 亀井若菜



桑実寺縁起絵巻に描かれた近江の景色



滋賀県には中世絵画の優品が多く残されている。
その一つに安土の桑実寺(くわのみでら)に所蔵されている「桑実寺縁起絵巻(くわのみでらえんぎえまき)」がある。

この絵巻は国の重要文化財に指定され、美術史上の価値が高いこともさることながら、近江の実際の景色を臨場感をもって描く場面を含んでおり注目される。その景観表現の内容と意味についてお話させて頂きたい。

天文元年(1532)に制作されたこの絵巻の下巻第一段には、図1のような景観が描かれている。


                   図1 桑実寺縁起絵巻 下巻第一段

図1を見ると、画面の右手には緑の小高い山があり、そこに白馬に乗って飛ぶ薬師如来一行がいる。山から左に目を移すと広々とした田が広がり、その先には遠くの山並みが見える。
この景色は、金泥や群青や緑青を使い美しく、しかもある場所から一望したかのごとくに表されている。

この絵は絵巻の物語に即して描かれた一場面であり、物語では次のような話が語られている。

天智天皇の時代に志賀の都で病が流行り、その病を取り払うべく琵琶湖から薬師如来が出現する。その薬師如来はまず天高くに上ったあと、天駈ける白い牛や馬に乗って桑実寺まで飛んで行き、桑実寺の本尊となる。
この絵では、薬師如来がちょうど牛から馬に乗り替えて飛んでいるところが表されているのである。

では、この景色を実際の景色と照らし合わせて見てみよう。
画面の右手にある緑の山は、桑実寺の本堂裏手から見える安土山の形に近い。図2は本堂裏手から撮った写真である。


                     図2 桑実寺裏手からの景色

安土山が左右に尾根を張り出す形がそっくりである。また、この緑の山の右側から上方が水の景となっているのは、安土山の北側にかつて伊庭内湖や安土内湖、大中の湖が広がっていたことに対応している(図3)
                              図3 桑実寺付近のかっての地図

また、緑の山(安土山)から田を挟んだ反対側には、遠くの山並みが描かれている。
この山並みはよく見ると一つの山ではなく、幾重かの山々で構成されている。
一番手前の山、その左右に頭を出している山、そしてさらに後ろの山々である。

この山々に類似する山の景も、桑実寺本堂裏手から見ることができる。  
一番手前の山は繖山(きぬがさやま)の南端に突出した部分の山である。その左右に頭を出す右の山は瓶割山、左の山は雪野山、さらに後ろの山は鏡山であろう。

このようにこの絵巻では、内湖から安土山、田んぼ、そして繖山南端部や瓶割山などが、ひとつながりの景色として描かれている。それらは、桑実寺の本堂裏手から一望できる景色であり、それを絵の上に再現しようとしているのである。

ある地点から実際に見える景色をこれほど忠実に再現しようとする絵は、16世紀という段階では他に類例がない。ではなぜ、このような景観の絵が描かれたのであろうか。

 この絵巻は、室町第12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)が発願し、三条西実隆が詞書草案を作り、後奈良天皇、青蓮院尊鎮、実隆らが詞書を清書し、絵は土佐光茂(とさみつもち)が描いて作られた。

絵は絵師が描くが、絵師の意思で自由に描かれるわけではない。絵師は、絵を注文した権力者の意向に沿うように、注文主が見たいと望む世界を描いていく。この絵巻を注文した足利義晴は、このとき敵対勢力により京都を追われ、近江の地を点々とし、桑実寺に逃げてきていた。絵巻の絵は、桑実寺にいたそのような義晴の意向を受けて制作されたのである。

そうであるならば、この絵巻に桑実寺一帯の景観が描かれているのは、そのような義晴が、今自分が拠点としている場所を絵に描かせて称えたかったからではないだろうか。

この地はこれ以前に絵とされたことはなく、ここは名所でもない。そのため義晴は、自分が近江で拠点とする地を、そことわかるように実景に即す形で、しかも美しく丁寧に描かせて、近江にいる自分を正当化したかったのであろうと考える。

絵の中に描かれた瓶割山には長光寺がある。義晴は京都から近江へ逃げてくる際、長光寺にも滞在していた。

そしてこの景観表現のちょうど中央、田が広がる部分の遥か遠方には、京都が位置している。この絵には、自分が拠点としている土地の景色を一望しつつ、その先に京都を思い描こうとする将軍義晴の視線を想定することができるであろう。

実際に桑実寺から見える景色を再現するこの絵は、京都を追われこの地に逃げてきていた将軍が発願したからこそ描かれえたのである。

この絵巻の美しい景観表現からは、このようなことが推測される。この絵巻は、絵を歴史と重ねて読み解くことの面白さや、窮地にあった人の深い思いが絵に込められていることをも、教えてくれるのである。
                                                  



       
      

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