近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


近江源氏を語る
  〜黒田氏前史〜



金森法印長近。
桶狭間にも参戦した程の信長古参の赤母衣衆でありながら、後年利休十哲に選ばれるなど教養を重んじ戦国を比較的誠実に生き抜いて飛騨高山城を拓いた武将である。

名のりで分かるように、出は江州金ケ森寺内町の豪商・金森采女定近の次男五郎八である。父金森定近の出自は必ずしも明確ではないが、定本・金森歴代記によると、決して「馬の骨」などではない。れっきとした土岐源氏の庶流「大畑氏」である。

応永年間・美濃で勃発した船田合戦に敗れ、長い一家流浪の末・母方の里を頼って金ケ森にたどり着いたものである。骨品卑しからず、彼の地で珍重され「薬草」を扱って財をなしたとされる。

次男五郎八はそこで成人し18才になったのを機に、大畑を再興すべく尾張に出て信長に仕えたものとされている。不思議なことに、再興なっても大畑氏に復さず金森氏である。

 近江と思しき金森長近について冒頭述べたのは、来年度の大河に予定されている黒田官兵衛・黒田氏前史を解説するためである。

元々系図や始祖譚の立証は極めて困難で、司馬遼太郎などは、ほとんどうそ・神話だと言い切っているが、その神話を更に膨らませて歴史小説を書いているところが又面白い。

★新撰姓氏録(915)嵯峨天皇 
★尊卑分脈(1373〜95頃)左
 大臣洞院公定 
★寛永諸家系図伝(1641〜43)林羅山・掘杏庵 
★ 寛政重修諸家譜(1789〜01)近江堅田藩主堀田正敦 
これらがまあ半官製の系図で多くの物語がこれによっている。

 今回のフォーラムの資料では、黒田氏を次のように解説した。

『佐々木氏信の子満信の次男が、黒田村に居を構えた。地頭職の代官を務めたのかもしれない。
後嗣政光は六角高頼と結んで本家を凌ぐ勢いであったとされる。源姓黒田氏系譜によると、子高政は1511年永正の船岡山合戦でなぜか将軍・義稙の怒りに触れ備前国福岡千軒に逃れる。
ついで後嗣・重隆は広峰神社の御師と組んで目薬「玲珠膏」でたちまち財をなした。
子孫は地侍・豪族さらに播磨の国御着の小寺氏被官となって小寺官兵衛に繋がる。
後の黒田孝高である。黒田氏が源姓である証拠は家譜以外には見つかっておらず、地元の名も無き分限者という説もある。
尚、書物に黒田村は山東町にあり黒田藩調査役がその地を訪れたところ、地元民が買い上げ没収を恐れ、伊香郡の同名地を紹介したと言われている。
米原市山東町公民館の前に東黒田警官駐在所の名があるので、このあたりがその旧黒田村だろう。』


 見ての通り金森・黒田先祖譚があまりによく似ている、出来すぎているのである。当時、出世の方程式みたいなものがあったのだろうか。

 司馬遼太郎の「播磨灘物語」によると黒田藩士で儒者でもあった貝原益軒が大著「黒田家譜」(1672〜88)を、伊香郡黒田村を前提に著述されているが、黒田家譜右筆が寛永諸家系図伝成立後である事を考えると、藩正規の見解を踏襲されているのは当然である。

尚、黒田家の寛永家系図伝は藩主忠之の依頼で京極ゆかりの近江野村出身の儒者・堀杏庵が制作指導しており、黒田家譜の近江退出などのくだりは江源武鑑の記述に似ている事も割り引いて考えなければならない。

 黒田近江源氏説を否定する見解については、「播磨黒田氏研究会」が最近、「黒田家前史論集」というホームページを立ち上げていて、なかなか読み応えのある内容である。

 ここでは、通説とされる黒田家譜とそれを膨らませた播磨灘物語をベースに考証してみたい。

(1)祖父重隆が広峰神社の御師と組んで薬を商ったとある。目薬「玲珠膏」はどうも事実らしい。この薬は明治初期まで続いていた。

(2)御着城主・小寺藤兵衛が進取の人材を登用しており、父職隆もその知遇を得て重臣に抜擢された。

(3)官兵衛が小寺をやめて黒田を名のったのは、「天正記」によると賎ヶ岳のあとである。

 以上の少ない確認された事象から、何を導き出せるかである。

(1)は金森法印と同じ文脈でありしかも扱う商品は薬である。薬といえば伊吹である。京極のお膝元山東町を示唆しているのであろう。

(2)は、同族相噛む地方豪族が全くの「馬の骨」を信用し重用する土壌があったのか? いくら流動性の高い時代だとしてもそれは飛躍しすぎ? 教養を身につけた地元の分限者が、領主の知恵袋・側近となって小寺姓を頂いたとしても不思議でない時代である。

藤吉郎や光秀のように・・・。一方、先の「黒田家前史論集」ではこれを否定する。播州黒田氏と小寺氏は赤松庶流の同族。重隆→職隆→官兵衛ではなく重隆の次男官兵衛が子のない筆頭家老小寺職隆の養子となり跡を継いだとしている。

(3)は、官兵衛が黒田を名のったのがいつなのかは、存外ポイントではなかろうか。黒田氏が世に知られるのは父職隆の時からである。
この時彼は既に小寺姓である。「黒田孝高」は結構遅いようである。毛利に走った主君小寺藤兵衛を憚っての事である。官兵衛が名のりをかえた黒田は、佐々木黒田か赤松黒田か。ちなみに播州北部多可郡JR加古川線に本黒田と黒田庄いう駅がある。

                                                   (上嶋)



       
      

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