近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


  九里半海道の残影

1.まえがき
古代から中世にかけて大陸文化の受け入れ口は山陰や若狭の諸湊であったのだから日本海側こそが表日本であった、と若狭の人々は胸を張る。

若狭から近江を経て京へ達する道筋は、どうしても両国を隔てる嶺を越さねばならなかったが、旅人や牛馬の脚力は車が登れないような急勾配の段々道でも平気であったから、道は山稜の鞍部をねらって作られた。
こうして、若狭小浜と近江今津を結ぶ最短の道が九里半海道と呼ばれ、近世では、若狭から京へ登せる荷物が殺到し、江州からの下り荷はその半分にも及ばなかったという。

ところで近年、大型の重量車でも容易に通行できるよう急勾配と急カーブを解消する路線改修が進み、トンネルを穿ち架橋位置を移すなどして、街道沿いの風景は昔日の面影をとどめぬまでに壊され続けている。
具体的に言えば、路傍の道標も石仏も道路拡張や側溝施工のために動座を余儀なくされるし、時には除雪車が押した圧雪の下敷きになるなど受難の連続なのである。
わけても街道沿線の大字追分・大字南生見・大字北生見の三地域が饗庭野演習場拡大の故を以って、相次いで地図上から消える運命に遭ったのは、最大の寂れと言えよう。



  1:領家村の道標  2:北王見の天王碑
  3:追分の焦銀杏  4:保坂の道標
  5: 金比羅社の常夜燈
  6:山中の関所後  7:寒空の道祖神



このような中で、僅かに昔日の賑わいを残している下図の諸地点について、石造品を中心にそれぞれにまつわる文書や伝承などもとり上げて、諸賢の御批正を請うべくペンを執った訳である。
 
2.領家村の道標
今津町の山岳部を激しく蛇行した石田川の最下流に架る浜分橋(平成5年3月竣工)の北岸堤に建っている。六尺×九寸の花崗岩柱で高さ約四尺、台石はなくコンクリートで固められ、石柱の中ほどは折れて修復したモルタルの汚れが滲んでいる
正面上部に龕中に合掌した童顔の座像があり、その下に「京へ十七里」と「善光寺へ八十五里」と二行刻まれている。
                           
左側面には「弘化元辰七月八日」とあるが、右側や背面はのみ跡だけで刻字した形跡はない。この道標は、平成4年の時点では、大規模な河川改修工事のために200mほど上流の土手の夏草の中に横倒しにされていた。昭和61年の今津町報に載る写真では、台座も正対する方位も明らかに違っている。
本来どこに、どちら向きに建っていたものか近所の人々に尋ね巡って得た答えは、

 @昭和28年13号台風の大水で浜分橋(木橋)が流失し堤防も大きく壊れた時に道標が傷んだと聞いている。毎年地蔵盆には供物を飾ったりして遊んだものだが今と同じ西向きであったと思う。[中年の漁師] 

 A私の家は地頭村にあったが度々の水込みに困りこの領家へ移って来た。あの施主は地元の名家でも寺方でもない。村人も今のように拝んだり祭ったりしていなかったし、今よりもっと橋に近く、土手の藪の傍にあって北面していた。だから浜街道を南行する人への案内道標であったろう。(米寿を越した元校長)

 因みに「近江輿地志略」には、領家村・地頭村・石田村を合わせて浜分と云うと記されている。この村名の由来は荘園時代の領主関係を示していることは論を俟たないが、下って天保・弘化の年代には、農民の社寺巡拝が盛んになりその為にこの道標が建てられたのではなかろうか。

村では男地蔵と呼び、妻の出産をむかえた夫が拝む。
女地蔵は右へ2m程の所にある石佛で妻が日参する。安産の霊験あらたかな地蔵と云っている。
筆者がはずした前かけ(よだれかけ)を手にした幼児を、子守り役の婆さんは「罪があたる」と叱りつけた。

3.北生見の天王碑
写真のとおり(高86p・幅35p)自然石のやや平らな
曲面に「伯楽天王」の四字が陰刻されている。その字面を丹念に指でなぞってみると、「楽」や「天」などは個性的な筆致でやや弱々しく見える。それは永年の風雪で建立当時の刻みの深さが半減したからであろう。石材は、地区を貫流する石田川の河岸で得たと推定できる。なぜなら、北生見地区の社寺や民家の石垣はすべて激流で磨かれた丸味を帯びた石で、その中には碑石と同質の堆積岩も見られるからである。

ところで「伯楽」とは古代中国の馬を見分けた名人から出た語で、後にその意が転じて、馬に精通した獣医や馬の売買仲介をするバクロウ(馬喰・博労)を呼ぶようになったとある。
「天王」は、四天王や牛頭天王のように、仏の守護神を表わす語で、除疫神として江戸時代に農山村でも信仰されたという。


北生村、長源寺地先の子安地蔵堂跡
発見された碑石が昭和45年3月から
平成4年まで建っていた


北生見村は上街道〔九里半海道の今津熊川宿間の呼び名〕のほぼ中間に位置し、午前は今津方面から熊川宿へ荷受に行く空馬と熊川方面から今津湊へ向かう荷馬とがすれ違い、午後はこの反対の姿で行き交う雑沓ぶりであった。

正徳4年(1714)の「宗門5人組長」〔北生見区有文書〕によると、この村は71戸379人という大村(村高は128石余で1戸当り1石8斗に届かぬ貧村)で、住人は男も女も馬方や背負い人夫として、いわゆる街道稼ぎで生計を立てていたのである。

この村に住んで居た川上庄の馬指し久太夫が天明元年(1781)に認めた書状に『村は近年困窮致し牛馬30疋も減り申し只今にてはようよう123疋』と嘆いていることから推定すると、この村の馬医が「伯楽天王」碑を屋敷内に祠ったのは1700年代のことであろうか。

4.追分の焦げイチョウ

碑石を祀っていた桂田氏邱跡

略図でも見られるように、若狭から近江へ入る道筋は、国境の険しい水坂(ミサカ)峠 を越し激流の洗う岸壁をよぎり海老坂(エビサカ)を登りつめると、急に天空が広がり山容も穏やかになって道は二手に分かれる。


川沿いに東を渡る道と熊野山の台地を南へたどる道とにアイワカレる故に、追分の地名がついたという。

 中世、木津(コウツ)庄 [現新旭町北部]と善積庄[現今津町南半]の境界紛争に際して延暦寺が木津庄に下した書状には、山門領の西限りは若狭路追分であると明記している。
また、五箇(ゴカ)商人と保内商人とが九里半階[ママ]道で起こした悶着の訴状(享禄2年−「今堀日吉神社文書」)にも、追分や法坂[ママ]の関銭云々が見られる。

 近世には、小浜藩米を木津(小浜藩領)の若狭倉へ着けるのと、他国の俵物や海産物を今津湊(金沢藩領)へ輸するのとの岐路は常に追分(福知山藩領)に於いてであった。
 ところで、古来熊野山と呼ばれた広大な台地は、明治になって饗庭野と改称され、富国強兵の国策に副って砲兵演習場として陸軍の買上げるところとなった。
 その後、装備の大型化や射程の拡大等に伴って手狭になると、その都度隣接する山野を買収して対応して来たのであるが、戦後、陸上自衛隊戦車大隊が常駐し航空機との立体的な演習場として機能させる為には、更に近接する農耕地や集落までも必要とするに至った。

追分地区がその対象となった最初で、昭和49年8月に廃村の諸行事を了え今津へ集団移住したのである。
 追分の集落跡は演習部隊の野営地とする為に、演習場内の建設工事に伴う残土を大量に運び込み地均しをして、住居跡の石組みも庭木も果樹も悉く消されていった。

その中で、イチョウ左の写真)だけは霊気でも漂っていたのであろうか四周を盛土しただけで事無きを得たのである。
 今では60年も以前(昭和15年5月22日)のできごとであるが、演習部隊の流弾によって、追分の住家7戸が全焼した時、集落の東寄りにあった専称寺の本堂も庫裏も焼け落ち、前栽はずれにあったこのイチョウも幹の下半分に火がついた。

 昔からイチョウは防焔の樹と云われるだけあって、こんな重傷を負いながらも翌年夏には芽吹き初めて、折から仮堂を再建中であった村人達を元気づけたと云う曰く付きの樹なのである。 
炭化した心材部を労わるように辺材部が包み込み60年かけて再生した生証人の姿なのである。 (右の写真

5.保坂(ほうさか)の道標
保坂の道標については、『近この道標江の道標』に採録されているのは勿論、そのレプリカが福井県立若狭民俗資料館(小浜市)の前庭を飾っているくらい貴重な存在なのであるが、近江歴史回廊の10探訪ルートから外れている為に『湖西湖辺(コセイウミノベ)の道』には残念ながら収録されていない。












 所在位置を示す下の写真(平成13年1月撮影)は、旧国道303号線から保坂集落の中心部を見下ろしたもので、向う側全斜面スギの人工林の裾野を遮っている国道367号線からも離れているために、道標そのものは道行くドライバーの眼には止まらない。

              (道標は写真中央の電柱下)

 そもそも狭い渓間の道筋に、背負いや牛馬による荷持ちを稼業とする人々が屯したのがこの集落の始まりなのだから、この写真でも、各戸の棟が銘々段違いであることや、農地と思しきものが見られぬこと、日照時間が短くて冬場の降雪が生活を脅かしそうなことなど、厳しい立地条件が読み取れる筈である。
 他方、大型車両が入れないことが幸いして、この姉妹道標と見られていた伊香立途中町の三叉路に建っていたもの、或いは今津町天神の森外れにあった道標、のように一夜にして忽然と消える運命からは免逃れ得たのである。
 近年の度重なる河川改修や道路工事による疵痕が痛々しく、動座に伴う基部の埋没が貴重な銘文を読みづらくしているが、二百余年の昔、何頭かの牛に挽かれて山坂を越して来たのであろうこの碑石を、心して見守りたいものである。

6.山峡の金毘羅宮
中ノ川に沿った海道が保坂の民家はずれになると山峡が更に深まり、その昔にわか雨の増水で土橋や丸木橋が再々流失したという急流も、今は三面コンクリートの砂防水路に様変わりして、孟宗竹や雪損木が谷間を塞いで、ここが年間30万駄に及ぶ荷物の越した道筋なのかと疑いたくなる。

下流から三っ目の砂防.堤は枝谷からの清流を受けての設計であるが、同時に“金ぴらさん”の神域を守るためでもあったのか、左岸に丸木の鳥居がひっそりと立っている。

大きな山石を見事に組み上げた石段を登ると、樹齢300 年ほどのヒノキの木かげに小さな社殿が安置されている。このよな急峻な谷間は常に雪崩れや土石流の危険にさらされていて、たとえ強固な岩盤の上であっても、大きな建物はもたないのであろうか。


そういえば下図のような銘文のある灯篭の笠石や火袋台の隅が欠損しているのは、倒壊を免れた一対の片割れと読めるのではない
文政六年林鐘と読めるやや大型の灯篭は一対であるが、文政十二年の灯篭は一基しか残っていない。

近世末期に流行した金毘羅信仰は、主に海上安全を祈願したようだが、若狭の問屋衆が文政年間に集中してこの祠に御神灯を寄進したのは、一体なに故であろうか。
早朝熊川宿を発った人夫が今津湊からの帰途、此処で日暮れて野宿したのであろうか。それとも牛馬の渇きと疲れをいやす格好の休息所であったからか。もう小半時も歩けば水坂峠に達する。

7.山中関所の跡
畿内防衛の前線であった近江国へ入る道筋に関所が置かれたのは、近江に都が遷った前後で今から1300 余年も前のことであった。
              
愛発(アラチ)の関(敦賀市山中)、不破の関(不破郡関ケ原町山中)、鈴鹿の関(鈴鹿郡関町坂下)などは何れも道筋が峠にさしかかる手前に位置し、そこに降り注ぐ雨水さえも近江に入ることを許さなかった。

  山中村の関所跡は右写真中央の2階屋辺り


九里半海道の番所も、乱世の時代には追分だの保坂だのとあちこち動いたようであるが、近世になって徳川幕府は、水坂峠を越して狭側に降りた所にある村に関所を定めた。

この村の流水も琵琶湖に注がない点は先述の三関と同じだが、地籍は高島郡の山中村で昔から近江の版図であった点だけ異なっている。

 8.寒風(さむかぜ)の道祖神                     
国道303号線を西進して、水坂(みさか)トンネルを通過すると、蛇行する急な下り坂の左側に山中関の置かれていた集落跡が見え、その先、谷間を塞ぐような山砂利砕石施設があるがすぐに、寒風トンネルによって視界は閉ざされる。

水の流れを表日本と裏日本に分ける堺なので「みさか」の名がつき、季節不問で強い風が吹き抜けるから、「さむかぜ」が、幾筋もの谷水が集まって来てここから曲がりくねって海へ向かうので「くまがわ」の名が生まれたのだと言う。                                          写真は寒川トンネル出口の新寒風橋辺り      

たしかに、地図で方位を確認し山嶺と渓谷とを遠望すると、寒風の渡り場が街道一の難所であったことが合点できる。

 享保8年12月24日、街道の除雪人足が雪ずりに遭ってすぐ掘り出したが、天増川村の孫四郎だけは助からなかった。元文5年6月3日、油樽4個をつけた今津の馬が、俄か雨で増水した十惣河原で脚をすべらせ、荷は流れ馬方久七は溺死した。宝暦6年正月11日、寒風橋の手前で、上方へ向かう旅人5人が雪なでで埋まり、うち3人が死亡したので番所から検分に出向いた。(熊川問屋『御用日記』による)

 現在、廃道になっている旧寒風橋の下流路肩に据えられている2基の碑は、この難所の歴史を如実に物語っている。

 写真のとおり、斜面からの崩土と倒木落葉に埋もれ、台座の石組も全く判らない。碑石の表面は、刻字面も側面も痛々しい疵がいくつも残っている。これは、過去何十回となく土砂崩れやなだれで埋没した証で、其の後の道普請や道路改修でも座を変えたに違いない。

 下手の碑の正面には南無阿弥陀佛と大書し、側面に文政五年九月と、道普請供○若州遠敷邑願主○○と刻まれている。これは、道普請で働いていた人夫の何人かが事故に遭って落命したのではあるまいか。

上手の大岩には祈請道祖神とあるように、街道一の難所に道中安全の守り神を勧請したものと思われる。世話人や銀方として16人刻まれ、若狭商人や熊川宿役人に連なって、街道筋の馬借世話方とおぼしき人々が8人も入っている。

 これは、5斗入りの俵物を二つ鞍に着けた牛馬が、年間延べ一万疋もこの崖っぷちを越して上方へ向かったのであるから、問屋も馬方も願いは同じ「道中安全」だった訳である。

9.熊川宿
 元禄2年(1689)2月、若狭小浜から江州今津へと旅した貝原益軒が『西北紀行』の中で

[ 熊川  小浜より四里半有、朽木へ四里、今津へ五里、宿駅なり。(中略)熊川より八町ばかり東に大杉とて民家つづけり。其の半ば程に谷川あり、これ若狭と近江の境なり。]

と記しているように、熊川は九里半街道のほぼ中間点にある街道随一の宿駅であった。

 小浜藩主の任命した熊川町奉行は、宿駅の機能を司る問屋を統御することと、藩のお蔵米を輸送することが重要任務で、この奉行所のほかに、年貢米を収納する12棟ものお蔵や、上方へ向かう女や荷物を改める番所なども街道筋に並んでいた。

 熊川宿をはさんで小浜までの4里半を下街道、熊川今津間の山越え道5里は上街道、そして下街道を通る荷は若狭の人夫が手がけ、上街道の荷物は江州の牛馬や背負い人が運ぶという原則があって、例外としては、保坂から朽木谷を経由して京へ向かう鯖荷に限って、小浜の問屋が仕立てた背負い人に「背持札」(番所通過証)を与えていた。

 こうして今津港へ向かう上せ荷はすべて、熊川宿で継ぎ立てたので、俵物問屋や四十物(あいもの)問屋は勿論、肥料問屋も荒物問屋も、店先は人と牛馬とで連日埋まった。

弘部・生見など上街道の空馬が待ち構えているところへ、朝小浜を発った荷持ち集団が到着する昼飯どきは、格別の喧しさであったろう。

 時代が移るにつれて、国内の城下町に限らず、湊町や門前町にも行商や諸職にたずさわる町屋が増加して、毎日街道を登る町荷の品数も量目も、徐々に変化していった。

 そうした中で、熊川今津間の蔵米の駄賃(一疋の馬が一石の米=一駄)が米6升と、慶長年間に奉行所が公定したままでは、駄賃?(かせ)ぎの人々が、運賃を奮発する商人の荷物の方へ流れたのは無理もない。

 数年に亘る蔵米駄賃の嘆願を聞き流していた町奉行に対して、忍従の限界に達した上街道の馬借たちは、大挙して国境(上大杉)の街道を封鎖するという事態(文化元年6月末〜7月11日)に至った。江若国境の馬借一揆とも云われている出来事である。

                                            (会員 澤田)


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