近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


近江の国・墾田(はるた)に居住せしむ



日本書紀 斉明紀7年「一書にいわく、辛酉年(かのととり661)、百済の佐平・福信、唐の捕虜106人を朝廷に献ず。朝廷は近江の国・墾田(はるた)に居住せしむ」…とある。

平成24年8月17日大津京勉強会において「近江国墾田」の位置の特定を巡って質問があった。もとより古代史の事とて、ハッキリ分からないと言うべきだがそれでは面白くない。
状況証拠を重ねた調査結果を解説してみた。幸い一定の評価を得たので会報にて再度、報告しておきたい。

(1) まず斉明紀7年という年号である。
斉明6年(660)百済は、唐・新羅の挟撃を受けて滅んでしまった。がしかし百済の遺臣・鬼室福信は、ゲリラ兵を組織し頑強に抵抗していた。
翌年になっても平定できず戦局は膠着していた。福信は巻き返しのチャンスと見て、倭国に質となっていた百済王子豊璋の帰国と、倭国の援兵を要請した。

朝廷はこれを受け、翌斉明7年(661)正月を期して難波港を出発、遠征の途についた。福信が戦利品として唐の捕虜を送ってきたのもこの頃であろう。自軍が優勢であるという証拠を示したかったと考えられる。

同年7月斉明天皇は筑紫で崩御、皇太子・中大兄は飛鳥に帰京、筑紫の前線は大海人皇子が指揮をとったと思われる。壬申の乱において筑紫の大兵が近江朝廷の要請に応じなかったのもこの辺の伏線があったのであろう。

翌天智称制2年(663)倭国軍・白村江で大敗、残された船団は百済の遺民を伴って帰国、中大兄・大海人は唐・新羅の来寇に備え大わらわとなる。

福信が残した唐の捕虜106名はこの戦(いくさ)準備の一環として、筑紫・河内・飛鳥から近江墾田に移されたらしい。

(2) ここで墾田である。
墾田が普通名詞としての墾田(こんでん)を意味するのか、(はるた)という地名を述べているのか迷うところである。前者の場合、もともとの荒地であった所を捕虜によって開拓せしめ、その地に土着させた、と読める。
         
             瀬田丘陵想像図

彼らの技術で灌漑を行い広大な農地が出現した、というイメージである。しかしながら、客観的情勢を見ると、この時期に、有能な唐の人材を力仕事に過ぎない食料増産の仕事に投入するのかという疑問が残る。


そこで、後者の見解を検討する。南笠には、治田神社が鎮座し、5世紀末から6世紀末頃の古墳もある。このことから、この辺一帯は、治田連を祖神とした古くからの豪族が地歩を築いていたものと推定される。

その中に、彼ら唐人の一群は一大軍需産業を起こすべく入植した、と見た方が自然なのではないか。栗太郡北方に広がる瀬田丘陵と麓の南大萱など治田郷一帯に巨大な官営の製鉄・大鍛治コンビナートが出現し始めるのは、丁度この時期と一致する。

このことを裏付けるかのように、日本書紀は、次の事実を伝えている。
 その後、この唐人の一群は、近江を離れ、美濃国不波郡・方県(かたあがた)郡に移されとある。

関の鍛治がこの後裔かどうかは不明だが、このように、畿内に入植した唐系、名のある百済系の帰化人の多くが各地に分散移動し、土地土地で、指導的地位についた例は数多い。

(3) 唐の捕虜106人の首領格・続守言(しょくしゅげん)のことも伝えておかねばならない。大変な大物で、同じく渡来唐人であった薩弘恪(さつこうかく)とともに天武・持統朝に仕えた。

日本書紀には、続守言・薩弘恪は音博士(和音に当てはめる漢語を選ぶ役)であったこと、諸功績により水田四町を賜った事などとが記されている。
国史の編纂事業に関わった事は勿論、律令の目玉、飛鳥浄御原令の選定作業にも携わった。

没年は不明であるが、文武4年(700)の大宝律令の選定奉勅者に薩弘恪の名前があるのに続守言の名は無いこと、国史編纂に関わっていたにもかかわらず、続守言自身の来倭記に不確定な記述があること(つまり捕虜として來朝した記事が「一書」扱いとされていること)から、この年以前に死亡したものとみられる。

(4) 最後に、治田連である。
有能な唐人の一群を移すのに、なぜ治田郷が選ばれたのかである。
治田連の祖神は、欠史8代最後の開化天皇皇子・彦坐王(ひこいますおう)である。兄は三輪王朝の始祖崇神天皇である。

彦坐王は近江・美濃・山背・丹波などに地歩を築いている。彦坐王の妃のひとりが、後の継体天皇につながる息長水依媛である。息長水依媛の父は、野洲郡御上神社の祭神・天御影神・又の名を天目一箇神(あめのまひとつのかみ)といい大鍛治の神とされる。つまり治田連は、製鉄を生業とする豪族であったのである。

これで疑問は解けた。つまり倭国の危機に際して、主に兵器調達を託された治田連が、立地に恵まれた近江瀬田丘陵の製鉄コンビナート建設に着手し、大鍛治工場の近代化をはかったのである。

そして、その技術と知識を持つ唐人をスカウトしたのである。一定の成果を得た後、本拠地・美濃に招き定着を促したのもこの文脈から理解できるとしたいが如何であろうか。


                                                   (上嶋)


       
      

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