近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


 ドラマ篤姫と草津宿

 

NHK大河ドラマ「篤姫」は大変な人気であった。北京オリンピックの間、多くの定時番組が休みになったり時間帯が変更になったりしたが、「篤姫」は2回とも定時に放送された。
私の従妹はNHKドラマをめったに見ないのだが「篤姫」だけは欠かさずに見ている。

さてその篤姫だが、草津宿本陣に泊まっていたことがわかった。今和泉島津家に生まれた篤姫は、島津本家の斉彬の養女となって鹿児島を出発、江戸の薩摩藩邸へと向かった。

幕府のほうから12代将軍徳川家定の御台所にという打診はあったものの、まだ海のものとも山のものとも決まらぬままの旅であった。そのときの宿泊の記録が草津宿本陣の大福帳に記載されていたのである。
 篤姫の宿泊記録

「あれはな、ボランティア・ガイドの方から『絶対何かある筈や』言うて探してもらったんやで」と、ボランティア・ガイドの長老のHさんが自慢していた。嘉永6年(1853)の大福帳である。


 十月六日 伏見立 △
一 薩摩 御姫君様 御泊  九蔵 

とある。△のところは、ちょっとよみづらい。

草津宿街道交流館のYさんに写真を見せたら「前」だという。この直前の記載が

十月七日 守山立 後
一 天龍寺様 御小休  九蔵

とあり、六日と七日の記載が逆になっている。それで、六日の方に「前」、七日の方に「後」と
メモ書きを入れたのだという。まるで自分が書いたようにあっさりというので信用することにした。

「九蔵」というのは「九蔵本陣」の意味である。草津宿には、田中七左衛門の営む七左衛門本陣と田中九蔵が営む九蔵本陣とがあった。七左衛門は副業に材木商を営んでいたので木屋本陣ともいった。

現在残っている国指定の「史跡草津宿本陣」は、七左衛門本陣である。そして篤姫が泊まったのは九蔵本陣だった。

九蔵本陣は建物もこわされ、文書も大部分が散逸した。文書が残っていたら、もう少し詳しいことがわかったに違いない。

和宮は、ドラマ「篤姫」の第2の主人公ともいうべき人であろう。仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹で、親子(ちかこ)内親王という。和宮は幼称である。

すでに有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していたが、公武合体という大義名分の前に仲を裂かれ、14代将軍徳川家茂の夫人となるため、江戸へくだって行った。

和宮の歌一首
惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも

京都御所を出発したのは文久元年(1861)10月20日、大津で2泊して後発の行列を待ち、22日は鳥居川で小休み、草津で昼食となった。

本陣の大福帳には

十月に廿二日  大津御立
一 皇女和宮様  御休  田中七左衛門

と記され、七左衛門本陣だったことがわかる。この日の泊まりは守山宿だった。

和宮の行列の総人数は「警備・人足まで含めて25,000人」とするもの(歴史街道10月号)から、その半数くらいのものなど諸説まちまちである。確かなことは草津宿を通過するのに4日かかったこと。先発隊が通ったのが20日、最後尾が通ったのが23日であった。

              和宮の小休み記録   

道中の和宮の食事については、御賄三番組 西村藤八が「和宮御方様御下向御道中御次献立表」を残しており、草津宿本陣での昼食の献立もこれによって知ることができる。

膾・わん 煎酒酢、蓮根△切、紅葉ふ
白髪大こん、山吹湯波、洗生姜
汁    合ミそ、つまミ△、浅草海苔
平    人参、相良ふ、しゐ茸、長いも、銀南
皿盛   三井寺豆腐、焼栗、干ひやう、み淋煎
香の物  なすびなら漬、たくあん大根
御飯

和宮の昼食再現、草津街道交流館


この日は関東方の精進日であったので、魚は使われていない。
時は流れ、将軍家茂は病死、和宮は落飾して静寛院宮となった。幕府はなくなり、江戸は東京と名を変えた。明治2年(1869)宮は里帰りした。

5年間京都にいて、明治7年(1874)に東京に戻る。一行は16人だった。七左衛門本陣で小休みした。七左衛門本陣の最後の客であった。
                                                   (橋本)


       
      

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