近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告


 遺跡名「五十遺跡」

 

平成13年度 滋賀県教育委員会による「滋賀県遺跡地名表」から抜粋

遺跡番号   403-052
地図      30
遺跡     名 五十遺跡
所在地    東近江市南須田町
種類      館跡
時代      室町
立地      山麓
現状      水田公園
備考      石垣

きぬがさ山(通称、観音寺山)の西側山麓にあるこの遺跡は、織豊時代の安土城下町の一部で、武家屋敷跡という説もあり、かなり関心をもたていました。(秋田祐毅著『織田信長と安土城』1990創元社より)

 昭和61年に当時の能登川町で、「やわらぎの郷事業」が計画され翌62年に亘り、発掘調査が行なわれました。
結果は安土城関係屋敷跡であることを明確に裏付けられる資料(建物跡らしきものや井戸等)は何も検出されませんでした。

出土した僅かな遺物は、ほとんど近世以降の陶磁器片だったので、文献史学や地理学的には安土城関係の考えられても、考古学的には積極的に肯定し得る資料は乏しいと結論付け、今後調査結果を待ちたいと結んでいます。
(以上は能登川町教育委員会、昭和63年3月発行の『能登川町埋蔵文化財調査報告書、第9集より抜粋収録』

 これが現在確認されている「五十遺跡」の定説ですが、ここで私なりにいろいろ考察を加え、一の考え方としての見方を記したいと思います。

 私の考察の前提は、先の秋田祐毅著『織田信長と安土城』の第7章安土城下町と街道、第1節―安土城下町を復元する(221〜239頁)の記述です。

これを要約しますと、安土城下町の範囲が東端は北腰越峠を経て現神崎郡能登川町須田地区(現在は東近江市南須田町及び北須田町)にまで達していた。内容は、須田川を付け替えて「馬場」を構築し、馬廻衆等信長直属の直臣の屋敷地としたこと等を、『信長公記』や総見寺文書の慶長7年の『検地帳』に記されている地名等を引用して、著述された安土城下町の所謂「秋田説」と言われているものです。

          五十遺跡の位置図

須田地区での城下町計画では、天正9年の「馬場」の構築が切っ掛けとすれば、安土築城計画の中では最も遅い時期に当たることになります。既に信長の側近や上級武士団の屋敷構築は終わり、安土山南麓にはもう土地が無く馬廻衆等直臣の屋敷地は、その場所として北腰越峠を経て整備中の下街道(後の朝鮮人街道)と、きぬがさ山の地獄越峠を経て、中山道への近道となる接点の須田地区(現在の五十遺跡に当たる場所)が、具体化してきたのではないかと考えました。

この頃の武士団は、未だ兵農分離が完全に行なわれておらず、多くの織田家子飼いの家臣は、信長の地元尾張国に土地を持った農業兼営の家臣が多く、信長の上洛に伴い土地も家族も尾張に残したままの、単身赴任の仕官だったようです。

この事を知った信長は、立腹し更に兵農分離を進めるべく、尾張に在る家臣の実家を焼き払い、安土への移住を促したとのことです。

こうした計画の中で先ず「五十遺跡」地区の、石垣を伴う屋敷割り工事が進められたのではないでしょうか。

今で言えば宅地造成工事でその終盤時に、予期せぬ「本能寺の変」が起こり必然的にこの工事計画は、中止されてしまったのでしょう。

従って「五十遺跡」には、石垣・石段と屋敷地と思われる一部の平坦面が現在まで残されていますが、建物跡や井戸等此処に人が住んでいた痕跡の遺構が見つからなかったのは、当たり前のこととなる。………と、考察しますと昭和62年の「五十遺跡」の発掘調査の結果に納得できるのではないかと、私なりの考え方です。


  五十遺跡の石垣

安土山の北東側(干拓前の伊庭内湖側)には、安土城の搦手筋が存在し、数々の物資搬送設備が県の発掘調査で確認されています。

秋田説の「須田地区の一部迄城下町だった」の是非は、兎も角として信長の安土城計画に山の北東側にある須田地区が、全く無関係だったとは考えにくいと思います。

秋田説を否定すれば「五十遺跡」の石垣や、それに伴う平坦地は何時頃、何の目的で構築されたものでしょうか?周囲の山林と比べて単なる山林の土留め工事だとはとても考えられません。

遺跡調査は、今後も続き、また新たな史実も明らかになるものと期待します。いろいろと考えを巡らし考え方の範囲を拡げて「五十遺跡」に秘められたロマンを追ってみるのも、また楽しい「夢」です。「五十遺跡」は、未だ多くの謎を秘めて今も眠っています。

                                                   (川村)


       
      

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