近江歴史回廊倶楽部

歴史研究・報告

景清傳記

はじめに


湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着しているところに関心を呼ぶのである。大変興味ある歴史上の究明部分でもある。
これから 景清にかかる「伝記」と「道」についてお伝えしたいと思う。

1.平氏の武将 景清の生涯

時は、平安時代の平氏一門による武家政治が台頭し、平清盛の政治勢力により院政の地位を高め、京都六波羅に本拠を構えて、栄華と威勢を誇っていたが、鎌倉の源頼朝の挙兵により、「源平の戦い」の時代に入り、驕る平氏も清盛の死によって、平家一族は安徳天皇と共に京の都を離れ西海へ落ち延びて、ついに屋島・壇の浦の戦いで平家一門は滅亡するという、今から820年前にさかのぼる源平時代に生きた景清の伝記である。

景清は仁平3(1153)年上総の国(今の千葉県中部)に忠清の次男として生まれる。景清27才の治承4(1180)年、安徳天皇の滝口の任に補され、その後、兵衛尉に任ぜられて上総介七郎兵衛と呼ばれた。
平安末期の寿永2〈1183)年に、源平争乱の讃岐国、屋島の戦い、壇の浦(山口県下関市)の戦いにおいて勇将ぶりを発揮する。
名著の『平家物語』の屋島における有名な「錣引き1の場面で登場する。
「遠からん者は音にもきけ、近くはよって目にも見よ。われこそは、京の者たちのあいだで評判の上総の悪七兵衛景清なり。」と名乗り、奮戦している。
更に、壇の浦の戦いにおいても、悪七兵衛が登場している。
「源氏の者たちは、馬に乗れれば大きな口をきけるだろうが、舟の上での戦いは知らぬ。魚が木にのぼったようなものだ。ひとりひとりつかまえて海にたたきこんでやる。」と豪語しているが、平家の最後がきた。祖母の二位殿は安徳天皇を抱き深い海に身を投げた。と同時に、天皇の母である建礼門院も海に身を投げたが、源氏に引き上げられた。後に僧法印慶恵僧の住まいに身を寄せ、出家して大原山の寂光院に移り、平家一門の冥福を祈りつつ、建久2(1191)年往生している。
このように壇の浦の戦いで平家一門は断絶したが、悪七兵衛は兄忠光と共に逃亡して行方は不明である。それ以来景清は、叔父にあたる大日能忍(平安末・鎌倉前期の禅僧)を刺殺しており、「悪七兵衛」と云われたとの説もある。
建久6(1195)年3月12日、源頼朝は東大寺大仏再建供養のため奈良へ行ったが、源頼朝を狙う不審な者を捕らえさせた。その不審者は平家の残党薩摩の中務(なかづかさ)家資(いえすけ)と自供したので処刑したとある。しかし謡曲の「大仏供養」に演じられる平家の残党はここでは景清で、春日山に逃げている。[後述]
翌建久7年、平家の残党として悪七兵衛は追捕され源頼朝に降り、日向へ流されたとある。
この頃であろうか、目を患い一心に薬師如来に帰依し、又、平家の再興を祈願して「景清道」を往来したのだろうか。又、謡曲の「景清」の曲趣、尾張の国、熱田の遊女との間にもうけた娘、人丸が訪れるのもこの時期であろう。
建久9(1199)年正月13日、源頼朝がこの世を去ったが、既に景清には武勇の姿はなく、盲目で悲惨な乞食同様の末路を送ったとされている。
平氏の武将景清は、建保2(1214)年日向の国、今の宮崎市にて逝去。
享年62才。法名 千手院殿水鑑景清大居士とある。
宮崎市生日亀井山の生目神社には、眼を祀ったと言う伝説があり、宮崎市北方塚原に景清の霊を祀った廟あり、廟の横に人丸姫之墓と母の供養塔も祀られている。

2.
後日談の謡曲に登場する景清像
◇大仏供養の景清

謡曲の「大仏供養」の内容は、平家没落の後、景清が、今は源氏の世となって身を置くところなく、都に上って人目を忍んで源頼朝を狙っていた頃、折り好く南都東大寺再建大仏開眼の供養法会、建久6(1195)年が執行され、源頼朝がその法会に臨席すると聞き、自分も南都に住む奈良若草辺に母親を訪れると、旅人の姿に身をやつした景清を、母、喜び迎えた後で、頼朝を狙っているという噂は真かと尋ねる。景清は母に迫られて陰謀のあらましを告白し、その決意を語り、平家の中で最も重んじられていたのが、今は隠れ忍びながら暮らしているのを嘆いた。やがて夜が明け
『げにありがたき母の慈悲、御言葉の末も頼もしき、柞(はわそ)の森の雨露の、柞の森の雨露の、梢も濡らす我が袖を、しをりかねたる涙かな。何時しか親心悲しむ母の門送り、景清も見返りて涙と共に別れけり、別れけり』と、再開を約して決別する。
大仏供養に、源頼朝が多くの将士に護られて法会の場に臨むと、社人に変装した景清が近付こうとしたが、見顕されたので、このまま立退いては弓矢の恥と思い直し、大声挙げて名乗りかける。警固の兵が包囲する。景清は格闘の末銘刀あざ丸を抜き、一人の若武者を切り伏せたが、今はこれまでと身を隠して、春日山の中にと遁れ去るのである。
(謡曲、大仏供養・作者不詳・室町時代の作)

◇盲目景清と娘人丸

「面影を見ぬ盲目ぞ悲しき」ではじまる悲哀的な、この謡曲の曲趣は、屋島の合戦に剛勇の名を轟かした平家の侍悪七兵衛景清も、今は老い痩せ衰え盲目となって乞食の境涯に身を落とした姿で、草庵を結び、里人の憐れみを受けて僅かに露命をつないでいる。
その景清を慕って、娘の人丸は、従者を連れて鎌倉から日向の国宮崎に尋ねて来る。宮崎に着いて、ある藁屋に居る盲目の乞食に景清のことを尋ねると、知らぬと答える。そこで今度は里人に尋ねると先の乞食が父の景清だという事が判った。里人は会いたがっている人丸を哀れに思い、連れて来て景清に対面させると
『今まではつつみ隠すと思ひしに、顕れけるか露の身の、置き所なや恥ずかしや。御身は花の姿にて、親子と名のり給ふならば、殊に我が名もいうべしと思ひ切りつつ過ごすなり、我を怨みと思ふなよ。』と景清は、やる瀬ない気持ちを子の為を思って隠そうとした心中を語り、屋島の合戦での武勇の思いを語った後、わが亡き後の回向を頼み、故郷へ娘を帰らせたのである。
『さらばよ、留る行くぞとのただ一声を聞き残す、これぞ親子の形見なる、これぞ親子の形見なる。』で終る。盲目景清と娘人丸との出会いは、景清晩年の悲劇さを物語っている。
(謡曲、景清・作者一世阿弥元清・室町時代の作)

3.
景清が残した道

この道は、景清なる平家の落人が、平氏再興の祈願の為、尾張国(名古屋市)より、遥か京都の清水寺の薬師如来へ参詣のために通った道と言われており、又、眼病平癒のために通った道であると言い伝えられている.
歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。
「景清道」は、遠き尾張国の熱田より北国路に向い、大垣過ぎで中山道に入り関ケ原より近江に来ており、柏原から醒井から息郷・番場を通り、鳥居本より彦根に至り、ここより景清道らしき古道が現存し、伝承されている。
近年の土地開発で、陰道を偲ぶ箇所は一部に過ぎないが、地域に根付いている事は確かである。現在の地図では明確でないが、通説によれば、彦根より宇尾、堀、極楽寺、楡(にれ)、安食中、三津、肥田、百々、長野西、長野東の旧道を通り、愛知川の御幸橋に至っているようである。

愛知川は、御幸橋付近で渡し舟で五個荘町簗瀬に着き、宮荘の五個神社の横に出て、景清も参詣したであろう、入口に清水が湧き出る荘厳な行願禅寺を通り過ぎ、大城神社の森を目指して真直ぐに自転車道が伸びているのが「景清道」である。

五個荘小学校前の、通学道路を横切り、金堂に菅原道真公を祀る立派な大城神社横の、いかにも景清道らしい細い小径を経て石塚に至り、繖山の麓の清水谷を経て、安土町石寺(栢尾)に入り、有名な蓮池を通る。

ここより景清道、山中に向い紅葉で名高い近江の名園教林坊を通り過ぎ、山林道を西にとり、険しい鳥打越にさしかかり、峠を過ぎるとすぐ近江八幡市と安土町が一望出来て、今と変わらぬこの風景に、景清は遠い都に心を馳せ、そうして遠望出来る鶴翼山麓の旅庵寺に思いを寄せたことであろう。
ここから山手に行けば、瓢箪山古墳近くを通り、桑實寺参道入口に至る。桑實寺よりは、真直ぐに農道が伸びている。上豊浦に至ると、景清ゆかりの袈裟切地蔵堂を拝し、小中の行者堂前を西に向い、沙々貴神社街道(安土・西生来線)を横切り、小路と思われる道を、ちはし地蔵堂前を経て、浄厳院裏の慈恩寺を通り過ぎ、山本川の新橋「景清橋」を渡り近江八幡市に入る。景清道は、長田町にある農協カントリー前の田園の中を直線に鷹飼町に伸びており、その問には、県立八幡工業高校のグランドの傍らを通っている。
鷹飼町に至れば、市内より来ている黒橋道と交差し、法恩寺の裏を通り、JR西浦踏切(廃設)を渡り、八幡街道を横断して四宮地先に至っているが、市街化が進み、その面影を留めることが困難である。(以前は八幡駅の裏にあたる四宮地先で住宅街は切れ、八幡十三郷の重要河川であった錦川に沿って出町、中村町へ向い、金田地先の分水堰より北方に行けば、現在の市役所裏通りに至り、西方に伸びるのが景清道であった。)中村町の八幡神社にたどりつき、隣に景清が寄寓した旅庵寺が静かにたたずんでおり、景清との関係を知る人は以外と少ない。
更に景清道は西に向い、土田町の日尊神社前を通り、正宗禅寺を過ぎ、県道の下街道を西に進み、加茂町の蓮光寺を眺めながら「足伏走馬」の小公園より農道に入り、桃農園の横を通る。
この付近は、北方に鶴翼山・長命寺がすっきりと浮かび、南方には三上山・鏡山の全望が眺められ、通り過ぎた繖山も遥か東方に頂きを残している。景清も望めたであろうこの風景は、昔も今も変わらない。田中江町の国宝薬師如来像を祀る薬師堂前に、保存された景清道に感動を新たにして、並行して町内を通り、江頭町の丸の内団地を通り抜ければ、こんもりとした鎮守の森のある十王町の牟礼神社に至る。
この辺から日野川(仁保川)の堤や小道を経て、川の渡し場の小田越(小田町)もしくは、小畠越(野村町)より野洲郡に入ったと言われている。野洲郡小南史には、牟礼神社の辺りから日野川を渡り、小南へ渡ったとの説もあり、川の流れによって、渡る所は変わっていたと思われる。小南からは、中主町比留田、六条、五条、須原、小浜に至り、舟で堅田、大津、京都清水寺に至る道を、古来より「景清道」として、今日までその名を留めている。

4.
清景旅庵寺と、ゆかりの史跡
◇旅庵寺と景清の腰掛け石

旅庵寺(住職、小嶋真純師)は、近江八幡市中村町にあり、新たな本堂には、景清が安置した秘仏の本尊、薬師如来像が祀られている。天台宗派で、初めは神宮寺・恵命寺と号したようであるが、慶安3(1650)年10月に景清の由緒をもって、比叡山山門の令號文書が当寺に宝物として保存されており、更に享保9(1724)年の近江志新開略記に、「悪兵衛景清京都尾張往還二薬師佛ヲ持ムキテ堂ヲ営建ノ由ニテ清景旅館寺ト号シ本尊現存」とある。これに関係してか、町内道端に「薬師如来景清安置佛」の石碑があり、裏に文化8(1811)年8月吉日と残されている。

寺には景清の肖像画が宝物として所蔵されているが公開されていない。庭先には、景清が腰掛けて休んだと言われている「腰掛け石」が、以前境内の片隅にあったものを移転し保存されている

◇桑實寺と景清の背くらべ石

景清が旅庵寺で寄寓して眼病平癒のため、桑實寺(安土町)の薬師如来に日参したと言われている。
この桑實寺は、西国薬師第46番霊場、近江湖東第18番霊場で、天智天皇の勅願寺院として白鳳6年(南北朝時代)に創設され、縁起は、近江に疫病が流行して天皇の第四皇女の阿閉(あべ)皇女も病にかかり、定恵和尚の法会により薬師如来を本尊として開山する。又、定恵和尚が中国より桑木を持ち帰り、この地で始めて養蚕を広めたための寺号と言われている。

境内に「景清身丈石」があり、説明の立札には「景清の背くらべ石=平影清源平時代武将晩年は佛教に帰依し特に薬師如来の信心厚く桑實寺へ百日間の日参をなした記念です。」と書かれている。景清が日参し、自分の背丈と身体をとどめた石と伝えられている

◇袈裟切地蔵

安土町上豊浦では、不思議にも首のない地蔵尊を拝することが出来る。これは景清が桑實寺に日参している折、その地蔵尊が景清の心を探るため、容貌端麗な女性に化身し景清を誘惑したが、景清は動じないどころか、さては妖怪の化身かと、腰の太刀でその女性を一刀両断のもとに袈裟切りにしてしまったためであると言う。「己れの首を探した者は幸福に酬ゆ。」と、未だにその首を探しているという。大変珍しい地蔵尊のお姿である。

◇景清道の道標

@安土町慈恩寺の西の木戸と言われるところに、旧山本川に架かっていた「景清橋」の道標が、道端に今も保存されている。橋に景清道を案内しているのは他に類がなく、貴重な石造物と言える。
A安土町石寺の繖山の裾にあたる山中に、景清道がそのままに現存しており、生い茂る樹木や竹藪の間を通り過ぎる古道を偲ぶことが出来る。日頃は通る人影もないが、秋の観音寺石寺イベントには、この景清道の道標が歴史家の関心を一層高めるところである。
B五個荘町金堂に残る景清道の道標は、広大な郷社の大城神社の神苑の南側を細く通る小径があり、金堂から真直ぐに龍田に向い伸びている。その入口に地蔵尊のお堂が安置されており、その側に景清道の道標がくっきりと案内されており、人馬のみが通行出来る幅狭い古道に接する事が出来る。龍田の五個荘小学校前の道路を横切る形で、宮荘に向かう自転車道があり、その入口にも景清道の道標が設置されている。朝夕通学する児童は、この道をどのように理解しているだろうかと、一度聞いてみたい気がする里道の景清道である。

5.
後記

景清の生涯を通して、歴史上の実像は明確でない部分が多く、戯曲は更に物語化の思慮があり、重複して登場するなど、解明しにくい点である。
定説なき幻の道「景清道」が、中山道と下街道の間に現存している事は、信長時代以前より存在しており、古き街道でありながら、その後の新街道により、影をひそめた道と言える。
この道傍には何故か地蔵尊が多く祀られており、立派なお堂に安置されている事は、常に往来の旅人が無事祈願をしたのではないかと、思考する。
この様に郷土に残る「景清道」と共に景清の存在観は高く物語として語り継がれていく事に、意義深さを感じる次第である。       

(会員 村井)






       

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