近江歴史回廊倶楽部

行事の詳細


  湖東の春 史跡と藤花を巡る 
    
〜浜街道韋駄天めぐり〜


平成25年5月5日
守山市地域総合センターへ参加者24名集合。
金沢さんからあちらの森、こちらの集落と周囲の状況を説明される。歩き始めるとやがて、赤目垣が真紅に映える人家の間から大きな茅葺屋根が見える。守山市指定史跡の「大庄屋諏訪家屋敷」である。石橋を渡って土塀を右に見ながら、苔むした道から表門を入り、書院、主屋の前に出る。茅葺屋根の大型農家住宅の玄関先で守山市の小島係長と当主から説明を受ける。


                       三大神社にて

 諏訪家は1340年足利尊氏が、戦功の賞として、信州諏訪出身の奉行人諏訪円忠をこの地域の地頭職としたのに始まる。
これらの土地を夢窓国師の佛事料として嵯峨の臨川寺に寄進し、諸役を免除され所領が安堵されている。
応仁の乱後、淀藩領の世襲郷代官として、また江戸時代には幕末まで大庄屋を勤めた。

右側の書院に入る。建築年代は文化(1800年)の頃と判断され、やはり茅葺屋根だが接客用として建てられ、玄関、中、奥座敷がある。奥座敷から眺める庭園は、築山と大きな岩を配した枯山水式庭園で、中座敷前は池泉回遊式庭園である。

雪見灯篭下の枯れ池には半月草が繁っていてやがて真っ白に覆われるという。庭園に下り、奥の茶室前に来る。明治に円満院から移築した元禄の銘のある瓦で葺かれ、縁も付けられた秀作といわれる。

茶室との間には赤野井湾まで行く川舟を引き入れた水門が庭とあり、茶室に直に入れる石の階段が残っている。亭々と聳える巨木付近から赤野井東別院につながる通用門など、風格がある立派な屋敷だった。

 佐々木道といわれる、六角氏が観音寺城から上洛するとき通った道の傍らに竹の柵を施した凹地がある。この地の名の由来となった「阿伽井」跡である。

赤野井東別院の大伽藍の前を通り抜け、赤野井西別院に来る。こんな田舎にこれだけの寺院がと訝ったがその筈で、室町時代浄土真宗の布教に努めた蓮如上人ゆかりの寺だからであった。

 次の訪問地、矢島の自治会館に車を止めると、その前に「矢嶋御所跡」の銘版が立っている。
奈良興福寺の一乗院門主が永禄8年(1565)甲賀の和田惟政に匿われて公方屋敷に入ったあと、ここへ移った。のちの将軍足利義昭の仮御所である。意外なことで将軍の足取りを直接確認できた。

 お目当ての仏像は真光寺の飛び地、普門院観音堂にあった。
本尊は像高90cm余、檜材一木造りの聖観音の坐像である。昭和40年修理の際、近世に塗られた像面の彩色を取消し、本来の姿を再現した。
1036年大仏師慶秀(秋)の作った肉付きの豊かな、しかも温雅な彫りを実感させるためだった。
 
代掻き前の水を満々と湛えた田園が広がる浜海道を南下して草津市に入り、下寺常教寺の観音堂に着く。
檜財の一木造で、彩色された聖観音壇像は、9世紀のもので側面からの表情は意外にも厳しく異国的である。

ここからは会員で草津ボランティアガイドの嶋口さんの案内をうける。嶋口さんは今日、芦浦観音寺の本尊ご開帳で大変忙しいなかを、我々のため付きっ切りで案内してくれることになった。

次いで印岐志呂(いきしろ)神社へ参る。祭神は大巳貴尊(おおなむちのみこと)で敏達天皇13年(584)に勧請された。

本陣、拝殿とも壮大だが慶長年間に再建されたため、文化的価値は高くない。昼食をここでとる。芦浦観音寺が混雑しているので印岐志呂神社から畦道を歩いていく。あたりは田植えの真っ最中だ。

芦浦観音寺は聖徳太子が開基し、秦河勝が建立したと伝えられる。
最澄が延暦寺を創建したとき、巽(卯の方向では?)の守りとして天台宗に所属した。

中古、戦乱の災いに遭ったが、1408年再び法灯が点された。この寺を何よりも有名にしたのは、室町幕府より湖上交通を支配する船奉行の職を与えられたことであった。

また天正年間には、9代住職詮舜(せんしゅん)が秀吉の知遇を得て、城主にも匹敵する地位に付き、領地も4万石を与えられた。

境内も土手・石垣で囲み、内外に濠を廻らし、寺門も砦楼を築いて今も城郭の面影を留めている。

聖天堂で歓喜天と珍しい大根の彫刻の話「歓喜天には大根を供える風習がある」や、純唐風で秀麗な重要文化財の阿弥陀堂と如来像の説明を受けたあと、住宅風の簡素な建物の本堂に案内される。

昨日の本堂改築落慶法要に合わせて今日も、住職でさえ一度しか拝んだことがないという、秘仏十一面観音像の初公開が行なわれていた。

本尊は高さ30cmの小さい木像で、安土桃山時代の作、厨子に納められた黄金に光る造りや、表情を心行くまで観賞する。本堂より立派な書院は、野洲の永原御殿(徳川将軍家の休泊所)を移築したもので、この時ちょうど琴の演奏中であった。

浜海道の常盤地区には白鳳時代と伝えられる寺院が七つも点在する。
その一つ下物の花摘寺跡に着く。

その名は「聖徳太子が物部氏に追われてここまで来ると、村人が穴を掘ってそこへ太子を入れた。土で覆い、上に種をまいて花を咲かせカムフラージュして匿った」という荒唐無稽とも思える伝承によるものだった。

付近には塔やお堂の礎石らしき石が散らばっている。
常盤自治会館に車を停め、惣社神社に参る。

そのあと三大神社と志那神社へも参るが、この付近風が強かったのか、いずれも意布岐(いぶき)神と称する風の神が鎮座して、一般には「藤の志那三郷」と呼ばれる。砂ずりの藤が案外短いのは気候のせいだろうか。

条里制遺構が残る付近一帯は、集団転作で目も醒める麦の緑が一斉に穂を伸ばして、田園風景に情趣を添える。

吉田家に来る。代々が庄屋を務めた近郷きっての旧家で、5,000uの広い屋敷を構える。主屋は江戸時代に建てられた瓦葺の大規模民家である。台所の土間奥に牛を飼ったマヤがあるのは、庄屋といえどもやはり農家である証拠。

書院の南に築山を設けた枯池式枯山水庭園があり、前庭も石組みを設けて風格があった。なお10代当主は大正12年始めて淡水真珠の養殖研究をして、事業化に成功したことでも有名である。

近くには秘仏の木像十一面観音立像を開帳している橘堂があった。平安時代中期の作で、三面六臂を具えた雛には稀な秀作。折からの西日を受けてまばゆく浮かび上がっている。やはり吉田家が守っており、堂の傍らに10代当主の胸像もあった。

守山から志那港を結ぶ志那街道を、俳諧の祖・山崎宗鑑生誕の場所を横目で見ながらなおも西へ進み、志那漁港隣の蓮海寺に着く。
                                   蓮海寺地蔵菩薩

最澄の開基と伝わるお堂へ勝手に上り、「水難除けの志那地蔵」といわれる、彩色を纏った木像の地蔵菩薩立像を拝観する。

最澄の伝承に「其景概ヲ賞シ、遂ニ湖ニ航シ志那ニ来テ蓮ヲ植エ、自ラ地蔵像ヲ作リ一寺ヲ建立シテ安置シ、蓮海寺ト号ス」とある。
             

その蓮池を見下ろし、まさに梁塵秘抄(りょうじんひしょう)にある『近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし』を彷彿させるような、夕浪きらめく湖の彼方に比叡の山を望みながら、『元朝の見るものにせん不二山』と自然石に雄渾な書体で彫られた宗鑑の句を口ずさむ。
なぜこんな句碑がここにあるのか多少訝りながら。

これほど近くの農村地帯に、これだけの歴史遺産が複合的に存在するのに感心しながら、15箇所を馳せ巡った韋駄天紛いの一日であった。


                                                    (山下)


      

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