近江歴史回廊倶楽部

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  南山城の文化を訪ねる



平成24年5月8日(火)
コース JR守山駅〜木津川市加茂町「当尾の里」岩船寺〜石仏巡り(弥勒の辻一願不動、わらい仏、カラスの壷二尊、あたご燈籠、首切り地蔵、大門石仏群、藪の中三尊)〜公園で昼食〜浄瑠璃寺〜御霊神社〜恭仁宮資料館、大極殿・国分寺跡〜JR守山駅

南山城は、飛鳥・平城・平安の都の出入り口として発展し、木津川・淀川で南は浪速・瀬戸内と、北は平安京・近江と水運で結ばれ、陸路は大和からの主要官道の出発点であった。

 当尾の里は京都府の最南端、奈良県との県境近く、古くは小田原と呼ばれ、平安時代後期には世俗化した奈良仏教を嫌う修行僧が多く集まり、丘陵地の谷や嶺に庵を構え、念仏に専念していた地と伝えられる。

                        賀茂町 御霊神社
 

 岩船寺は小田原の東に位置し、寺の縁起によると天平元年(729)聖武天皇の勅願により、僧行基が阿弥陀堂を建立したのに始まる。弘仁4年(813)、仁明天皇誕生を祝い、堂塔伽藍が整備され、寺号も岩船寺となった。

幾多の変遷盛衰を経て、明治14年に真言律宗西大寺の末寺となり現在に至る。重要文化財の三重塔・阿弥陀如来像・普賢菩薩騎象像など、多くの文化財を蔵している。

   
                       当尾の石仏 阿弥陀三尊

 この辺りには多くの石仏・石造物がみられる。鎌倉時代後期から室町時代にかけて、行きかう人々のために多くの磨崖仏が造立された。繊細で芸術性の高い石仏が多く、石仏の里として多くの人が今も訪れている。

 小田原では東は随願寺(廃寺)を中心に子院や庵が集まり、西では浄瑠璃寺が中心で、今は西小(にしお)という。

寺の縁起は鎌倉時代の「浄瑠璃寺流記事」(重文、浄瑠璃時の根本史料文書)によると、永承2年(1047)に当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基したとある。

平安時代末期(1107)に九体阿弥陀仏が造られ、庭園(1150)を整備し、三重塔も京都より移築(1178)され今日の姿となった。

この後も吉祥天(1212)、馬頭観音(1241)と多くの仏像などが造られ、勧請された。明治初期に真言律宗となり、奈良仏教の宗派、西大寺流を伝える。

                                
 
御霊神社は加茂町兎並にあり、本殿は重要文化財。元は灯明寺の鎮守社であった。灯明寺の建物等は横浜三渓園に移築されたため、跡地に本尊などを安置する収蔵庫が設置され、11月3日に収蔵庫・神社本殿が一般公開される。

 ここまで、加茂ボランティアガイド3人の方々に案内していただいた。やはり、地元の方々の案内があると、分かり易く、詳しい話も聞けてとても良いものである。

 天平12年(740)、平城京の北、三方を急峻な山に囲まれ、南に木津川が流れる盆地の加茂町瓶原(みかのはら)地区に、南に広がる自然地形を利用して恭仁宮(くにのみや)は造営され遷都された。

今は、のどかな農村地帯となっているが、この狭く感じる地域に壮麗な宮があったとはとても思えない。

木津川市文化財整理保管センター恭仁分室(元は幼稚園舎?)で、恭仁宮の調査風景と再現CGのビデオを見る。

宮は木津川を自然の堀のように利用し、高台にうまく造られている。木津川の氾濫があっても安全な様である。宮の中心である「大極殿」、背後に東西に並んだ二つの「内裏」(聖武天皇と、元正上皇のためか)、大極殿の南に「朝堂院」「朝集殿院」によって構成され、大きさは平城宮の1/2弱の42haである。

人々の生活空間である京域は不明な所が多く、加茂地区に左京、鹿背山(かせやま)をはさんで木津・山城地区に右京が設けられたとする説が有力である。
しかし、恭仁京は5年間と短かったこともあり、多くの人々は平城京に家を持ち、そこから通っていたという説もある。この後、聖武天皇は恭仁京東北道を開き、紫香楽宮に至る。

南山城は近江の歴史にもつながる地域であった。春ののどかな一日、石仏たちに癒やされ、古代に思いを馳せた一日であった。
 

                                                     (中田)


      

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