近江歴史回廊倶楽部

行事の詳細


  中井先生と訪ねる近江の城郭 鎌刃城



平成23年11月16日(水)、参加者28名、鎌刃城への登山口、番場に集合。中井先生の案内で鎌刃城大手からの正面登山となった。

今は寂しい番場も、かっては箕浦荘の鎌倉地頭土肥氏の本拠地で、登山口には13世紀の屋敷跡があり、土器や中国産の陶器も出土しているとの解説があった。

さあ登山開始である。スタッフ一同下見の険しさでビビッていたがこの道は戦前炭焼き道でもあったらしく、さほど峻険という訳ではなく、息を切らしながらも1時間程度で北尾根の大堀切にたどり着くことが出来た。

大手道は大堀切の底に通じていて、郭にたどり着くには10m程の切岸をよじ登らなくてはならない。大石垣が一部露見しているのを見学。当り一面土に埋まっているものの多分大規模な防御処置が施されていたものと類推して一同一の郭に登りきる。

子供の声がする。ご高齢の泉米原市長が息郷小学校の生徒を引き連れて遠足のようだ。
山城、さほど健脚でなくてもOKかと妙に納得する。子供にも鎌刃の歴史を説明しているのかな。子供の頃母から聞いた話が今自分を歴史好きにしている。

遺跡は北の大堀切から南に向って尾根を平削していて10ヶ所の郭跡が残っている。

中井先生独特の語り口で虎口や土塁の解説があった。あたかも敵兵が虎口に取り付いて乱入する姿が浮かぶ。そこにはこのような仕掛があった筈だという論法だ。

                  鎌刃城の半地下郭















中でも自分自身興味をそそられるのは文献と遺跡の整合性だ。天正2年(1574)鎌刃城主堀氏が改易され、翌年城内にあった米穀2,000俵が対武田戦に備え徳川家康に与えられたという記述である。

2,000俵という大量の米をネズミから隔離し腐らすことのないような倉庫が城内のどこかにあったはずである。そこはどこか、証拠となる遺構は?答えは28名の参加者に譲るとして、興味をそそる今回の「中井先と登る鎌刃城」であった。

〔鎌刃城の歴史〕
標高384mm、 築城時期が15世紀後半から6世紀後半の鎌刃城は、近江湖北と美濃の境目の城として有名であるが、その歴史の一端を振り返ってみる。

元亀元年(1570)4月30日、突如越前金ケ崎で浅井長政に背後を襲われた信長は、朽木越えで京に取って返すことに成功する。

反攻のためには美濃と京の道筋である江南の調略が欠かせない。この時期に永原飛騨守(野洲)、蒲生賢秀(日野)、永田景弘(近江八幡・本拠は高島七頭)、布施淡路守(蒲生町)ら六角配下の有力国人の多くを味方に引き入れている。

おかげで千草峠で狙撃を受けながらも5月19日に無事岐阜城に帰陣することができた。

姉川決戦は6月28日でありその間の1ヶ月半、双方前線となる箕浦表の陣を確保すべく、活発な外交合戦が行われたものと考えられる。

先に動いたのは越前勢で関が原の狭隘部で迎え撃つべく朝倉景鏡を派遣して刈安尾城(上平寺)、長比城(柏原)を築いた。

浅井長政は両城に、鎌刃城主、堀・樋口を置いて前線を警備させた。
当然横山・鎌刃等前線の諸城も防御を固めたに違いない。

2年前の永禄11年、信長上洛時、祖法通り一旦観音寺城を明け渡して甲賀に退いていた六角承禎が6月4日に動く。

三雲・石部・池田(江南)・青木(菩提寺)ら甲賀衆を率いて挑んだ戦いが野洲河原落窪(中主)で行われ、佐久間信盛(永原)、柴田勝家(長光寺)によって粉砕された。

足利将軍さえ退けた戦術も時代の流れには通じなかったのである。多分それを見て取ったのに違いない堀・樋口は浅井・朝倉には虎の子であった二城を明け渡して鎌刃城に退き、今度は浅井方に備えることになる。

突如美濃近江の出口が開いたのを見てとった信長は早くも6月19日岐阜を出陣、20日に箕浦に禁制(略奪禁止令)を発して安堵、翌21日には小谷城下を放火して廻ったとある。

28日の姉川の合戦は、雌雄を決するに至らず恨みを買った鎌刃城は、その後浅井長政の攻撃を受けることになる。

このように、湖北湖南だけでなく美濃との境目にあった鎌刃城は、頻繁に戦場にもなった実戦向きの山城であったのである。


                                                     (上嶋)


      

無断転載を禁じます Copyright(C) 2005 Oumi Rekishi Kairou Club. All Rights Reserved.